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たしかに正しいけど、その通りだけど。

ブログじゃないという体でまとまった文章を置いておきたい場所

無気力に細切れに3

 私の信じる趣というのは、慎ましい犬の諦観と心酔と報奨と無念に寄り添っています。

 

 

 ――今は一体何時なのだろうか。そもそも昼なのか夜なのか。ぼやけた意識で向日葵はそんなことを考えていた。雨戸を閉め切り、また別の窓には遮光カーテンを引いた部屋の中は昼でも薄暗かったし、そもそも用を足すとき以外はずっと布団にくるまっていた。しかし、最後に布団を出たのはいつだったろうか。向日葵はそういった生物として最低限の行為すら忘れてしまっている自身の体を想う。

――大丈夫。お医者さんもただの風邪だろうって……。

 そんなわけないだろ! と櫻子の声がした気がした。

――寒い。櫻子。動きたくない。寒い。寒い。どうして来てくれませんの? こんなに寒いのに。こんなに会いたいのに。

 向日葵は刻一刻と意識や、大切な何か失われていくのに抗うように思考を続けていた。しかしその思考が上手くコントロールできない。何かに流される、吸い寄せられるように。長く細いものに絡めとられるかのように。

 櫻子はもう向日葵のことなど忘れて皆と遊んでいるのではないか。あの箱で遊んでいるのではないか。そうだ、あの箱は開いたのだろうか。中には何が入っていたのだろうか。

――あの箱は日曜日に、あのとき櫻子が遅刻して、それで……櫻子。ああ……そうだ明日は――

 

 夏休みも残すところあと半日。そんな寂寥感を伴う昼下がり、櫻子は自宅で横になってだらだらと過ごしていた。

「絶対あつーい……動きたくなーい」
 九月は頭とはいえまだまだ残暑は厳しい。冷房をきかせた上、扇風機の前に陣取って櫻子は呟いた。ちらりと窓の外へと視線を移せば燦々と輝く太陽、濃い緑の木々、夏真っ盛りと見紛うばかりの天気だった。
「なんで出かける約束なんかしちゃったんだろーなー」
 脚をばたつかせながらぶつくさと文句を呟いてはいるが、楽しそうである。昨日になって急に思い立ち、向日葵と一緒に遊ぶことに決めたのはほかでもない櫻子自身だった。
 休日のふたりは家が隣であるということもあり、どちらかの自宅で過ごすことが多い。夏休みが明けてふと思い返せば、せっかくの長期休暇中もそんな感じで過ごしてしまっていたことに気がついたのだ。
 思いついたが吉日とばかりに外出のお誘いをかけたところ、向日葵にも外出する予定があるとの話。「なら私もつき合う!」とテンションが上がる櫻子だったが、向日葵の歯切れは悪く――

「ああっ!」
 そこまで回想した櫻子は素早く時刻を確認し、目を見開いて立ち上がった。
「今日は外で待ち合わせだった!」
 櫻子がぐだぐだと駄々をこねた結果、向日葵は元々の用事を午前中になんとか済ませるので昼過ぎに駅前で合流でもいいならと答えたのだった。
 いつものように向日葵の家に行って後は流れで。などと考えていた櫻子はしばし呆然とした。こんな約束の時間ギリギリに動きはじめたのでは間に合いっこない。その上今日はこの暑さだ。そんな炎天下で人を待たせるのは、いくら気心が知れた向日葵相手でもさすがに申し訳なく思った。
 櫻子は急いで出かける準備を終えると、靴も履きかけのままに家から飛び出した。抜けるような高く青い空。陽炎の立ち上るアスファルトの道を駆ける。
 想像どおりに降り注ぐ太陽の光と初秋のくたびれた蝉の声を肌で感じながら、櫻子は抑えきれないわくわくとした気持ちを口許に湛え、今日そしてこれからも続くであろう楽しい日々に思いを馳せた。毎日は意識をすれば楽しいことだらけだ。


 気温は三十度を超え、風もほぼ無風の中、アスファルトの道を走り続ける。しばらくは軽快な走りを見せていた櫻子だったが、照りつける陽射しには一切の容赦もない。
「あついー死ぬー! もう無理ぃー……」
 櫻子はついに限界を迎え、力なく両腕を垂らしふらふらと歩きだした。途端に汗がにじむ。
「とけちゃう……あついのきらーい。そろそろ夏は終わりでいいよもう……」
 文句を言っていても仕方がないのだが突っ込む人が隣にいない。そうとわかってはいても悪態を吐かずにはいられないほどこの日は酷暑だった。数日涼しい日が続いていたこともあり余計に体に堪える。
 急がなければという気持ちが大きくなる櫻子だったが、汗をかきすぎるのは面倒でもあった。
「あ、そうだ。こうやって影のとこを進めば暑くないじゃん!」
 少しでも熱線から逃れようと物の影を辿って歩くことを思いついた櫻子は、ぴょんぴょんと影から影に飛び移りながら先を急いだ。
 傍から見れば余計に暑くなるのではないかというような行動だったが、自らの画期的な思いつきに酔ってしまっているらしい。
「あはっ、すっずしー。って、あれ」
 大きな木陰に入ったところでふと横を見ればいかにも涼しげな林が広がっている。何やら由緒正しそうな旧家の裏手にある林だった。
 櫻子は以前、何かの当番で近所の家々を回る母についていってこの家にも訪れたことがあったことを思い出す。
――確かこの林、向こうの大通りまで続いてて……。
「そうだ! ここ通っていけば涼しいし、近道できる! 我ながらナイスアイディア!」
 もちろん余所様の敷地に無断で侵入することになるわけなのだが、櫻子はその辺を深く考えず「おっじゃましまーす」とだけ声をかけ、意気揚々と林の中に入っていった。
 林の中は適度に明るく、よく手入れされているようでそれほど歩きづらいわけでもない。無風だと思っていたが涼やかな風も時折吹いてくる。何より鮮やかな緑の木々が、刺すように照りつける陽射しを遮ってくれているのが大きかった。
 櫻子は自分の判断が正しかったことを確信しながらずんずんと林を奥に進む。個人の敷地内にある林だ。それほどの大きさもなく、行く先の木々の隙間からは大通りを走る車から反射した光がちらちらと見える。
 ちょっとした探検気分できょろきょろと辺りを見回しながら歩いていた櫻子だったが、かすかな違和感に足を止めた。
「ん? あれ、なんだろこれ」
 よく見ると、すぐ右手に小さな祠のようなものがある。そんな人工物があれば、ここまで近づかなくても目に留まりそうなものだったが、どういうわけだかまったく気がつかなかったのだ。まるでわざとそうされているかのように風景と同化していた。
 櫻子は急いでいることも忘れ、吸い寄せられるようにその祠へと近づいていった。
「…………」
 相当古い。まず出てきたのはそんな感想だった。
 すべて木でできているのであろう祠は全体的にぼろぼろで、長年風雨に曝されたものであることは一目瞭然だった。
 なんとなく薄気味悪いものを感じ、この場を立ち去ろうとした櫻子だったが、ふと見ればその祠の中に何やら安置されている。
「……箱」
 ぽつりと呟くと次に気がついたときにはすでに十センチメートル四方ほどの箱がその手の中にあった。
 櫻子はきょとんとした顔で、箱を矯めつ眇めつする。
 墨で何か書かれた紙がべたべたと貼り付けられているが、その隙間から見るに寄木細工のようだ。櫻子の脳裏にいつかの記憶が浮かび上がる。
 幼少期に家族で旅行に行ったときのことだ。

 これとよく似た箱を土産物屋で発見し、親にせがんだが買ってもらえなかったことがあった。散々駄々をこねたので憶えている。売り場のお姉さんがその開閉の実演とともに言っていた言葉も思い出された。

『こうやって開けるのを難しくして、大事な宝物をしまっておくためのものなの。「秘密箱」ともいうのよ』

 秘密という表現に子供心を擽られ、欲しくて欲しくて堪らなかったのだ。
 もう一度箱をよく眺めた。ただでさえ開けるのが難しいはずなのに厳重な封がなされているように見える。軽く振ってみると何かが詰まっているような手応えがあった。
――これは絶対なんかすごいものが入ってる!
 櫻子はにんまりと笑うと、その箱を、表面についていた紙を剥がして捨て、バッグの中にしまってしまった。
 わくわくとした気持ちが余所の家の物を盗んでいるという事実を覆い隠してしまったのか、その祠があまりに古く、放置されていたように見えたことが原因か――とにもかくにも、まったく罪悪感を覚えることのないまま、櫻子はぱちりと目を瞬かせて我に返った。
「あああ! そうだ向日葵が待ってるんだった!」
 一瞬、何のためにした近道だったのかと後悔した櫻子だったが、この箱の話でチャラにしてもらおうと思い直して先を急ぐ。出掛けのときにも増してその心は踊っていた。

 

 結局、約束の時間を十五分以上過ぎたところでようやく櫻子は向日葵との待ち合わせ場所に到着した。
「ごめーん向日葵ー!」
「まったく、あなたから誘っておいて遅刻するなんて一体どういう神経してますの?」
 あの林の中で思いの外時間をくってしまっていたようで、予感のとおり全然近道にならなかったらしい。
「外で待ち合わせだったことすっかり忘れちゃってて」
「本当に櫻子、あなたって人はどうしてこう……」
「そ、そんなことよりも! これ!」
 櫻子は小言を遮ってバッグを開け、例の箱を取り出した。
「……なんですの、その古ぼけた箱は?」
「古いとかじゃないの! 寄木細工だよ寄木細工。まさか、知らないの?」
「そのぐらいはもちろん知っていますけど……どうしたんですの、それ?」
 櫻子は、そう問われて初めて、この箱を無断で持ち出してきてしまったことに気がついた。
「あーえーと……」
 露骨に目が泳ぐ櫻子を向日葵は訝る。
「まさか、それで遊んでて遅くなったとかいう」
「え、あ、ああ! 実はそうなんだ! ごめんごめん、つい夢中になっちゃってー」
 櫻子は向日葵の勘違いに即座に乗っかることにした。あんまりしどろもどろなので完全に疑いが晴れたわけではなかったが、何分も待たされていた向日葵は追及を諦めたようだ。
「……まあ、いいですわ。とにかくまずどこかお店に入って休みましょう。私、もう喉がからからで」
「わ、私も! 急いで来たからのど乾いちゃって! ……いや、その……ごめんなさい」
 じろりと睨まれ櫻子は素直に謝る。普段からいがみ合ってはいるが、なんだかんだで仲の良いふたりだ。謝るべきタイミングを心得ていた。
「よろしい。じゃあ飲み物は櫻子のおごりですわよ」
 うなだれる櫻子を置いて向日葵はすたすたと歩きだす。
「そ、そんなぁー」
「やはり誠意は形にして示してもらわないと」
 小走りで並んで向日葵の腕に縋ろうとする櫻子。それを腕だけでかわした向日葵の口元はもちろん笑っていた。

 口には出さないが大事な幼馴染。自分と違って感情をストレートに出す櫻子を彼女は羨ましく思うこともあった。
「……一体どんな顔をするか、楽しみですわね」
「ん? なんか言った?」
「なんでもありませんわ」
 バッグの持ち手を強く握り歩みを速める向日葵は、その拍子にたゆんと揺れた胸元が目に入った櫻子が「おっぱい禁止!」と騒ぐのも笑って許せる、そんな心持ちだった。