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たしかに正しいけど、その通りだけど。

ブログじゃないという体でまとまった文章を置いておきたい場所

何番煎じかわからない - 第二部の二

 テレビで例の競技会を観てから2か月ほど経った休日の朝、僕はユズと隣県の河川敷に来ていた。
 ユズが出たがるような大会は探してみるとなかなか見つからず、距離と時間を天秤にかけた結果、少し離れた所だけどなるべく早く参加できる大会を見つけ、そこにエントリーすることにしたのだった。

「思ったより賑わっているなぁ」

「はい! 楽しみです!」

 初参加で要領のわからない僕たちは1時間ほど前に会場に到着したのだが、それでも何組も参加者らしき人たちが集まっていた。
 ユズは今日のために買った新しい服を着てはりきっている。ふたりで選んだ体操服のように動きやすい服だった。いつもと違う装いのユズもとてもかわいらしい。
 周りの犬を見ると、何かを着ている子は少なく、あってもバンダナ程度だ。できるだけ動きの妨げにならないようにとのことだろうが……ユズの場合はそうはいかない。何せ何も着てなければ僕の横を走るのは全裸のうら若き少女であって。競技どころではない。僕だけがだけれど。いやいや今考えるべきはそんなことじゃない。

――やっぱり結構規模が大きい大会みたいだ……どうなることやら。

 ある程度頻回に開催される大会ということもあって、どこかのショッピングモールの催しみたいな小ぢんまりとしたものではなく、定員は多い。事前に見学できればよかったのだが、いやしかし僕たちなら大丈夫に違いない。

「よし、じゃあ一応練習しておこうかな」

「がんばります!!」

 僕は独り言のようにユズに話しかけた。帰りにはどんなご褒美を買って帰ろうか。そんなことを考える余裕すらあった。

 

 

 ――さて、蓋を開けてみれば大会は準優勝に終わってしまった。優勝は大人しそうなボーダーコリー。かなり美人さんだ。名前はなんといったか――確認すらしていなかったのでわからない。勝負にならないと思っていた相手のことだから、それも当然の話だった。
 始まる前は余裕だろうと思っていたけど、いざ人前でパフォーマンスを披露するとなると緊張も生じた。飼い主側にも指導手として則らねばならない要領が細かく決められており、小さな減点を受けてしまったことが直接の敗因だった。つまり、大体は僕が悪い。僕が敗因だった。
 余裕で優勝してめちゃくちゃに褒めちぎられることを期待していたユズは尻尾を巻いて縮こまってしまっていた。僕がそうさせたかと思うと胸が締め付けられる思いがした。でもここで謝ることは悪手だと思い、かといって慰めるのも、初出場で準優勝は誇るべき結果なわけで――などといろいろ考えた。でも解答は見つからなかった。
 それもそのはずで、そのときの僕は僕たちをおさえて優勝したペアのことで頭がいっぱいだったのだ。侮っていたこちらが恥ずかしくなるほどに、それは素晴らしい動きだった。それゆえに悔しいという感情はなく、ただただ打ちのめされた感じがしていた。

 

 成績発表後、そんなこんなで何をするでもなく佇んでいる様子の僕たちに近づいてくる人影があった。

「アジリティも意外と奥が深いでしょう?」

 柔和な笑みを浮かべて話しかけてきたのは優勝したペアの線の細い印象の男性指導手だった。その脇にはぴたりとボーダーコリーの女の子が寄り添っている。競技中もそうだったが、まるでカップル――いや、高貴な身分の旦那様と有能な付き人みたいなふたりだった。

「そうですね……」

 そう答える僕の心中は穏やかではない。たった今脳裏に思い描いていた理想のふたりから話しかけられたのだ。正直な気持ちを言えば、僕たち以上に通じ合っているかのようでとにかく羨ましかった。その秘訣を伺いたいぐらいだ。でもまずは敬意を表しなければならない。わずかに残っていたらしい理性が僕にぎりぎり社会性もたらした。

「本当に素晴らしい動きで感動しました。アジリティというものをまったくわからないままに出場した僕たちはなんと言いますか、恥ずかしいぐらいで……」

 言ってから遜りすぎたかな、と思ってちらりとユズを伺ったが、ユズも小さく頷いていてほっと胸を撫で下ろした。
 ちなみにアジリティとは今回僕とユズが参加した、犬の障害物走みたいな競技のことだ。トンネルやハードルなどが配置されたコースを決められた順序でできるだけ早く回ることを競うものだ。
 首肯し、相槌を打ってくれる彼に僕は続けた。

「でもなかなか、決められたとおりに動くのは難しくて……はい」

「ふむなるほど。おふたりはとても強い信頼関係ができているのですね」

 ゆったりとした口調で彼は言った。気落ちしていたユズだったが、その言葉を褒められたと素直に受け取ったようで僕の脚に軽くじゃれ付き、喜びを示した。人前では安易に会話をするわけにはいかないので、嬉しいときのユズはいつもこうする。犬のころとほぼ同じ動きだった。

「と、言いますと?」

 そんなユズの耳の裏を指先で軽く撫でてやりながら、僕は訊ね返す。

「ああ……決められたとおりに“動かす”のではなくて“動く”と仰ったでしょう? その子への指示に関しては絶対の自信を持っていらっしゃるのだと感じまして」

「なるほど……まあ、この子とはずっと一緒にいますから」

 そう答えた僕は、内心少々反省した。当たり前のように意思疎通ができると、こういった細かな言葉の端々にその影響が出てきてしまう。だからといって、それがすぐさま『異常に意思疎通がとれる』という風に捉えられることは、まずないのだけれど――

「まるで、言葉でも通じているかのようですね」

 そう言って、目の前の彼はくすくすと小さく笑った。僕と撫でられていたユズは、一瞬ぴたりと動きを止めてしまった。しかし、僕はすぐに再び手を動かし、彼に合わせて小さく笑う。俄かに手のひらから発汗があって、受ける刺激の強くなったユズがする身じろぎも気に留めることができなかった。

「――あんまり、からかうものじゃないわ」

 張り詰めたような雰囲気に、鈴の音のようなかわいらしい声が割り入る。僕は思わずびくりと顔を上げたが、そこには少し肩を竦めた指導手の男性が立っているだけだった。その反応を見るに、今のは空耳ではないらしい。呆気にとられる僕だったが、ふと足元を見るとユズは正面を見据えたまま、見たこともないような表情をして固まっている。その視線を辿ると、そこに座る子の、じっと見定めるような視線がこちらを射抜いていた。

「えーと……あれ?」

「お話しできるのは君たちだけだと思ってましたよね。驚かせてすみません」

 男性はゆっくりとしゃがみ込むと、居住まい正しい彼女の体を両手でまさぐり始めた。彼女はなすがままだ。その手は腰からおなか、胸、喉元そして頬と隈なく撫でさすり、最後にはなんと口付けを交わした。
 呆然と立ち竦む僕と赤面するユズ。そんな僕たちの様子はまったく意に介さず、口の端をわずかに上げると、彼は言った。

「申し遅れました。私は内原、この子はアヤノといいます。どうぞよろしく」