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たしかに正しいけど、その通りだけど。

ブログじゃないという体でまとまった文章を置いておきたい場所

何番煎じかわからない - 第三部

 内原さんとアヤノちゃんに出会ってから1週間が経った。

 陽も昇りきらない健全な時間にしっかりとユズに起こされ、寝間着のままソファに腰掛ける。ユズは隣にぴたりと付いてから体を倒し、ゆったりを尻尾をなびかせつつ膝の上から僕を見上げた。彼女はまだ気だるい様子の僕に遠慮しているようで、それを感じた僕はユズの柔らかな髪をふわりと梳いた。

「んー……」

 目を閉じて満足気な声を上げるユズ。しばらくそろそろと手を動かしていたが、やがてまた、ここ数日ことあるごとに頭に浮かんできた、あの日の出来事に思いを馳せていった。

 あの日、彼らは僕たちにこの不思議な状況の一端を明かしてくれた。最後に「そこから先は自分たちの目で確かめてくださいね」と本当に宣っていたのだからまさしく一端だ。

 主な内容としてはこうだ。内原さんは僕の母方の実家がある信州の鄙びた村出身だということで、どうも僕の遠縁であるらしかった。そこは山間の小さな村で、そのまた一部の集落ではそのような特殊な能力を発現する者がいる。古くは狗神筋と呼ばれていた家系で、昔はもっとたくさんの人がその能力を持っていたので強く信じられていた、言わば土着の信仰のようなものがあったらしい。小さなころには夏休みなどに祖父母に会うため訪れていたのだが、そのような話は聞いたことがなかったので驚いた。ただ、今思えば身内にはとても優しく、他人には――隣の集落の者に対してですら、少し厳しいところがあったように思う。でもそれだけだ。

 ただ内原さんは僕が話す前に実家の地名を出したし、そもそもアヤノちゃんは話すし――僕にはユズ以外の犬の言葉はわからない――そう、彼はユズの言葉がわかっていた。信じるしかなかった。

 

 

 ふう、と僕はひとつ息を吐いた。正直まだ心の整理がつかない。ようやくこの異常事態に慣れてきたところだったのに、突然そんなオカルトじみたことを言われても困ってしまう。

 もしかしたら、内原さんが全部をあの場で話さなかったのも、そんな混乱を予期してなのかもしれない。きっと彼らもこんな風に混乱した時期があったのに違いない。何があってもユズとなら大丈夫だ。そう、彼らのように。

 そこまで考えて、ユズの相手がおざなりになっていたことに気がつき、彼女の顔を覗き込んだ。彼女は僕の手に甘えたまま、テレビを眺めているようだった。ユズのために犬に関係する番組を録り溜めていて、今はそれを流している。

「なんの番組だかわかるの?」
「んー……あんまりです。でもほら、今出てる子、今ちょっと怒ってます」

 画面に目を向けると、白いチワワがタレントに抱かれていた。ユズに言葉を翻訳してもらうといろいろなことがわかる。例えば、尻尾を振るのは常に喜んでいるとは限らなくて、普通の速さくらいで振ってるときは愛想笑いみたいな感じのこともあるのだとか。

「でも、お話はあんまりわからないので」

 そう言ってユズは、少し残念そうに微笑んだ。実はお母さんの言葉も大まかにしかわからないし、他人の言葉はもっとわからないらしい。だからテレビも犬のことはわかるけど、ヒトの言葉がわからず、全体としてはよくわからないのだそうだ。いつも犬が出たときだけ注目している。画はよく見えていないらしいので、音を聴いているのだろう。ちなみに動きも不自然に見えるらしい。

 画面の中の犬が今度は飼い主らしき男に随分と勢いよくじゃれついている。ちぎれんばかりに振られる尻尾を見ながら僕は訊ねた。

「あれは僕にもわかるよ。嬉しいって言ってるんでしょ?」
「『好き、好き、大好き、もっと触って』って言ってます」
「……あっ、そうなんだ」

 なんだか変な空気になってしまう。それを感じているのは僕だけかもしれないけれど。

 どうも先日からユズのことを変に意識してしまっている。突然、目の前にヒトの女の子の体となって現れた形の愛しい飼い犬。今までもそんな気持ちが湧き起こりそうになることはあったが、強く認識する前に無意識に押し込めてきた。それがヒトの常識というか、理性というか、倫理観というか――いずれにせよ、簡単には承服できない気持ちがあった。

 しかし、実際にそんなことを超越した存在を、内原さんとアヤノちゃんという実例を目の当たりにして、僕の持つ常識は揺らいでいた。盲目的に信じていたその土台が酷く不安定なものだったことに気づかされた。

 テレビの向こうの犬はしゃがんだ飼い主に飛び付くと、顔面を舐め回してはしゃいでいる。蘇るのはあの日のふたりの口付け、でも僕は、僕がユズと……?

 「口をなめるのは好きな気持ちを伝えたいからですよ」とユズはいつかに言っていた。確かに犬はそんな行動をよくしている。ユズが普通に犬に見えていたころには顔を寄せれば舐めてきてくれたものだった。でも今はヒトの姿をしている。その上、かわいらしい少女の……。

 少女の姿になってからのユズには顔を舐めることを禁じていた。急に同居することになった少女という意識が薄れていくにつれ、ユズも好きだって言うならいいじゃないかと思った瞬間もあった。でもその言葉はそういう意味では使っていないのではないかと思えた。果たして恋愛感情などというものを彼女は持ち合わせているのだろうか。――ああ、認めざるを得ない。愛玩であったのであろうそれは僕の中で既に愛情に挿げ変わっている。

 

 そんなことを考え、押し黙る僕に、ころりと転がっておなかを見せるユズ。僕はそんな無邪気な彼女の行動に後ろ暗い気持ちになる。対してユズは、何がそんな気持ちにさせるのかはさっぱりな様子である。つまりはこういうことだ。この子が、このかわいらしい純真無垢な少女がヒトではないのだと思い知らされる。これで僕がどうにかなりそうになるだとか、そういう知識は彼女にはまったくないのだ。

 それはまるで幼児を相手にするかのようだが、見た目が年頃の女の子なので始末に負えない。ましてや完全に話が通じるのは僕と、あと先週会った内原さんだけである。入力が圧倒的に足りていない。これで人間らしさとも言うべきものがちゃんと育つだろうか。そう考えると、遠からず破綻するものではあったのかもしれなかった――。

 

 

 見上げた先のおにいさんは黙って前を向き、たまに小さく長く息をはいています。そんな時は何かを考えているのだと知っていたので、わたしは黙ってされるがままになっていました。

 テレビというものに目を向けてみました。甘えた声がきこえます。何かを考えながらもおにいさんの優しい手は耳の辺りをゆっくりと、とろけるようになでてくれています。前は満足していたはずのその状況で満たされない自分がいることにわたしは気づいていました。

 わたしは少し悲しい気持ちになりました。それが良くないことのように思えたのです。でもその感情の正体はわかりません。

 おにいさんとお話ができるようになったことはとてもうれしいことでした。でも話がわかればわかるほどに、おにいさんとの違いもわかってきました。前にはしてくれたのに、今はしてくれなくなったこともありました。それでも、前よりおにいさんが困っているのか、うれしいのかがしっかりわかって、ちゃんと言うことをきけているのだから、それでおにいさんともっとなかよくなれるはずだと、そう思っています。

 お話ができない方がよかった、なんてことは、ないんです。

 

「ふわぁ……んっ」

 頭を乗せていたところがびくりと震え、わたしはゆっくりと目を開きました。

 徐々に視界が定まってくると、おにいさんは窓の方からこちらに顔を向け「お、起きたんだ」とわたしに話しかけます。震えたのは膝か、とわたしは気がつきました。そして今の状況を把握するために思い返します。

 ――どうもいろいろと考えすぎて寝てしまっていたようです。まだあんまり考え込むことには慣れていないためか、どうも長い間頭を使っているとぼうっとしてきてしまうのです。今はもう考えるのはやめよう。そう思っていると、何やらおにいさんの様子がおかしいことに気づきました。

「おにいさん、いま……」
「いや! おなかが出てたから、その!」
「……」

 あわてておにいさんが言った言葉。おなか、わたしの。――しかし考えるより先に鼻が利きます。おにいさんからただようこの匂いには覚えがありました。

 あれは確か、まだお話ができないころのことです。昔のおにいさんは今ほどわたしといっしょにいてくれなくて、わたしからおにいさんのお部屋をたずねていくことがよくありました。お部屋の前まで来て、扉を手で叩くのです。大抵は少ししたら出てきてくれて、かまってもらえるのですが、たまにじっと待っていなければならないときもありました。そんなとき、出てきてくれたおにいさんからこんな匂いがしていたことがあったのです。

 昔はそれがなんなのかわからなかったけど、今ならわかります。これはおにいさんが発情しているときの匂いです。

 黙っているわたしにおにいさんはいろいろと話しかけていますが、あまり耳に入りませんでした。

――ふふ、わかっちゃいましたよ。だってもうわたし、子供じゃないんですから。

 

 

 数日後の朝、二度寝してなお目を覚まさない彼の部屋に少女がするりと忍び込んだ。

 少女はゆっくりとベッドの端まで歩き、それから呼吸を整えて顔を上げた。

 今、彼女の目の前には愛しい人の安らかな寝顔があった。薄く開いた唇が彼女のそのおぼろげな視野でもはっきりと確認できる距離にある。今しかない、と彼女は思った。

 少女の口が彼のそれに寄せられ、そろりと出された舌がわずかに端をなぞったかに見えた。それで舌は一旦引っ込みかけたが、それでは足りないとばかりに今度こそ二度、三度と唇に這わせる。彼はまだ安らかな寝息を立てている。

 少女はしばらく様子を伺っていたが、そのまま顔を離すと、来たときのようにゆっくりとした足取りで部屋を後にした。最後まで彼が目を覚ますことはなかった。

 そして――――そこからすべてがわかってしまった。