たしかに正しいけど、その通りだけど。

ブログじゃないという体でまとまった文章を置いておきたい場所

歩行する怪

 私の名前は彩果(あやか)。20歳の女子大生。文学部で心理学を専攻しています。
 今日はそんな私に先週振りかかった、不思議な出来事についてお話しします――

 

 私は北陸の海にも山にも近い片田舎出身。幼少期は親にも育てやすい子と称されるほど、大人しく手のかからない子供でした。兄弟はおらず、常にひとりで与えられた人形などで静かに遊んでいたそうです。
 そのまま大きな変化なく成長して小学生時代、海も山も近かった関係で他の子供たちはアウトドアな遊びに日々勤しんでいた一方、私は家でひとり本を読んでばかり。けれども本を読んでいたのは単に外に出て遊びたくなかったからで、テレビを観たりテレビゲームで遊んだりするのと違い、そうしていることを親に咎められることがなかったからという消極的な理由でした。
 そんな私でしたから、まるで物心つく前からレールに乗せられていたかのように順調に所謂オタク趣味に傾倒していきました。

 ひと口にオタク趣味と言っても実態は様々あるでしょうが、私は主に漫画を嗜好するようになっていました。オタク趣味の方向性は、その芽生えの時期に過ごした小さな世界の流行りに左右されるというのが私の持論です。私の場合、小中高と長い間を一緒に過ごした唯一の親友とのふたりだけの関係において生育された、とてもとても狭い世界での嗜好でしたので、漫画が趣味のオタクですなどとはとても言えないような、今の認識で言うならば単に内向的な趣味の陰キャラ地味女くらいなところです。これは、大学1年次の終わりにようやく思い切って足を踏み入れてみた所謂オタサーにおいて思い知ったことで、それまでは公言はしませんけれど、ある種堂々としたオタ自認というべきものを持っていたわけですが、その認識が揺らいで恐ろしくなってしまったところでした。

 そんな、恐ろしい経験はしたものの、ひとつ収穫はありました。
 それは大学において、初めて友人と呼んでよいような存在に巡り合えたことです。

 内向的で目立つことのなかった私ですが、親に文句を言われたくない、怒られたくないという意識の賜物か、学校の成績についてはある程度の水準を維持できていました。やはり勉強というものも、幼少期の私が読書に傾倒したように、注力して咎められることがないのが楽でした。そして言われるがままに、都内の私大を受け、そのまま入学の運びとなりました。親友は地元に近い国立大に見事合格し、地元に残ることになりました。ついに進む道を異にしてしまいましたが、彼女はドライなもので「在学中に一度くらいは帰ってきなね」なんて言っていました。私は少し泣きました。
 ちなみにいろいろあってまだ一度も帰省していません。図らずも彼女の言うとおりになってしまっているわけですが、まだ2年あるからそれまでには帰ろう。そう思っています。

 話が逸れましたが、サークルで出会った友人のことに戻ると、彼女はなんというか、私はとても眩しい方でした。
 私とは違い人懐こく適度に社交的で、私とは違い活動的で観光地や飲食店などに詳しく、私とは違い漫画もアニメもゲームも幅広くそして深い、紛れもないオタクでした。

 そのサークルに所属する人は圧倒的に男性が多かったのですが、一学年に何人か女性もいました。それでも、大学に入って初めて知人関係となったのですが、ほとんどの女性は広くオタクといっても、大きく捉えて男性同士の関係性を嗜好する方たちでした。
 私と私の親友の間ではたまたまそういった作品にハマることなく、少女漫画から始まり、青年向け漫画や美少女コミックと言われるようなジャンルのものと少しのライトノベルで、どのキャラがかわいいとかどの話が面白いだとかこそこそと話していただけだったものですから、私にとっては急にあまりに毛色の違うメインストリームに呑み込まれそうになったわけで、持ち前のコミュニケーション能力不足も相まって少々困っていたとき、話しかけてくれたのが彼女でした。
 あとから彼女も、自分もどっぷり男性向けの趣味で、なかなか同性で話ができる人がいないことを寂しく思っていたから、私が自分と同じような状況なことを察したときは嬉しかった。と話してくれました。私もとても嬉しかったです。

 彼女は私と同じ学年でしたが、サークルに入ったのが早かったこともあり、既にサークルでの立ち位置をしっかりと固めていました。彼女の持ち前の眩しさなら当然です。同性の私から見てもそうなのですから、男性から見たら一層そうなのでしょう。実際、彼女から多少はサークル内外での色恋に関係した話を漏れ聞くことがありました。でも私がそういったことに疎いことを知ってか、あまり直接的な話をしてくれることはありませんでした。でも何があったからといって、私が彼女と交際することになるわけでもない、つまり色恋といった土俵に上がることはないわけですから、興味のないことではありました。そのときは。

 

 今からひと月ほど前のことです。

 サークルでは皆SNSで日常の様々な外出やら食事やらイベントなどのことを発信し合い、緩く把握し合うことで繋がっていましたので、私も一応アカウントを作成し、同じように日常のことをぽつぽつと綴ったりしていました。
 その日もいつものように最近いくつか追い始めていたアニメの実況されるタイムラインを眺めたりしつつ自分もアニメを観ていると、個人宛のメッセージが送られてきていることに気づきました。
 そんなことは初めてなことで、少し不安になりながらもそのメッセージに目を通すと、送り主はサークルOBの方で、内容は食事の誘いでした。
 その方はどうも大学の近辺に現在も住んでいるらしく、OBとなったあとにもサークルの飲み会や突発の食事会などにはわりと顔を出していました。顔が広く、社交的な方で、眩しい例の彼女を含めた少人数で食事や、ときには旅行に行くこともあり、私も何回か同伴したことがありました。でも私は彼女のおまけのような立ち位置を徹底していましたので、いつもそういった連絡は彼女からで、そこにそのOBの方がいつもいるな、くらいな認識でした。ですから今回こうして直接連絡が来たことに少し違和感を覚えましたが、まあ知らない人ではないということで、返信はしておかねばならぬと意を決しました。
 詳しい内容を訊ねると、眩しい彼女を含めた4人で飲み会を兼ねた食事会を催す予定があるが、少し値が張るので個別に声を掛けているところだ。とのことでした。私は彼女が行くなら行きますと答えました。

 

 結局、彼女も参加することになり、私と彼女、OBの方とその方と同じ代の別のOBの方の4人での食事会が催されることとなりました。先週の金曜日の夜のことでした。
 食事自体は海鮮料理で、想像していたよりかなり高いということもなく、コストパフォーマンスのよい素敵なお店でした。私は出身の関係で山菜系も海鮮も好きで、結構舌が肥えているのではないかと思っていましたが、そんな私でもかなり美味しい料理で、それに舌鼓を打つうちに、お酒もどんどん進んでいったのだと思います。
 眩しい彼女はとてもお酒が強く、またOBの方々も同じのようで、私は自分のいつものペースを超え、気づけば経験したことがないほどに酔ってしまいました。多少の量であれば飲んでも気分が悪くなることもなく、冷静でいられたものですから、単純に経験が浅い私が自分の限界を知らなかった。それだけのことでした。思い返すにとても情けない、恐ろしい経験でした。幼少期から叱られないように、他人に迷惑をかけないようにと生きてきた私でしたから、それはとてもショックな出来事でした。
 なので、そんなショックが見せた、そんなとてつもないショックに頭が混乱して、いやそもそも泥酔していたのですから、私は、あのときの私は――

 

 気がつくと、私は飲み会に誘ってきたのとは別のOBの方に付き添われ、大学近くの道をふたりで歩いていました。
 辺りを見ると、駅の近くのようでした。状況には驚きましたが、駅に向かっているものと判断し、それより何より、他人に迷惑をかけたことの罪悪感が一挙に湧き上がって、私は謝罪の言葉を何度も繰り返したのを覚えています。
 彼は大丈夫大丈夫と、そんなことを言っていたと思います。それから駅の近くということと、きっとそこまで遅い時間ではなかったのもあったのでしょう、周りにほかの通行人もあることを認め、私は安堵しました。その瞬間、飲酒経験の浅い私、異性と触れ合った経験に乏しい私、オタクとしても浅い私、人生経験に乏しい私、いろいろな私が去来し、ついに私は蹲って泣き始めてしまいました。今まで送ってきた、感情を抑圧するような人生の揺り戻しがきているような、そんな奔流に呑まれた私に涙を止める術はありませんでした。

 しばらく泣き続け、涙も涸れ、少し客観的に自分を見ることができるようになってきた頃でした。
 嗚呼こんな姿を晒してしまってこれからどうしたらよいのだろう。合わせる顔がない。そうだ、彼女はどうしたのだろうか。その瞬間まで、酔っていたことを言い訳にできないほどに綺麗さっぱり彼女のことが頭から抜けていたことに愕然とした私は、はっと顔を上げました。するとそこは先程まで居たはずのよく知った駅近くの道ではなく、どこか一本入ったような街灯の少ない道の、その真ん中に私はしゃがんでいました。
 状況の変化に混乱していた私でしたが、何かとても嫌な感じがして、でもどうしてもそうしなければいられない、そんな気持ちがして、私に付いてくださっていた男性の方に――ずっと隣に感じていた気配のする方に、ゆっくりと顔を向けました。

 

 そこには誰かが立っていました。
 その誰かが視界に入ると、私の視線は縫い止められたかのように動かせなくなってしまいました。視線だけではなく、首や、そもそも体が動かない。声も出せなくなっていることに気がつきました。
 誰か、と言うには理由があって、顔を判別することができなかったのです。
 私の視線はしゃがんだままの位置で平行移動し、彼の腰辺りを捉えたところでそのまま動かなくなってしまったのですから。
 声も出せない状況のまま、体感的にかなり長い時間が経ったように思えましたが、数秒の間だったかもしれません。そんな時間間隔までも麻痺してきたとき、不意に眼前の存在から声を掛けられました。

「ぼくの“女性さん”になって」

 その声は、確かに彼のものだったと思いますが、言っていることがわかりません。女性さん? 彼女にしてくれ? 告白? いろいろな思考だけが渦巻く中、返答を待たずに彼は両手を腰の前辺りに持って行き、徐にベルトを外し始めました。
 私は心の中で悲鳴を上げました。脳内の疑問符は一掃され、瞬く間に恐怖に塗り替えられました。しかし、逃げることはできません。顔を背けることはもちろん、視線を外すことすらできないのです。
 そうこうするうちに、彼は手を自身の腰の脇に回し、じわりじわりと下ろしていきます。ゆっくりとした衣擦れの音だけが頭の中に響きます。恐怖感と嫌悪感にめちゃくちゃになりながらも、私は意識を失ったりなどすることはありませんでした。それどころか、その光景を目前にしながら、なんとか呼吸をしようと必死になっていました。そもそも体は動かないのですが、口を開き、なんとか頑張れば、最低限の酸素が取り込めたのです。いっそ呼吸を諦めて酸欠で失神してしまえばよかったのかもしれませんが、そんな冷静な思考は望むべくもありませんでした。
 きっとあと数ミリメートル、下に下ろせば――といったところで、彼の手は一気に地面まで下ろされ、下半身が完全に露わになった、はずなのですが――

 彼の股間には、虚空が拡がっていました。

 どんなに目を凝らしても、そこには何もありません。代わりに女性器が付いているわけでもなく、マネキンのようにつるりと何もないというのでもありません。まるで視野が欠損したかのように、そこを何とも認識できないのです。
 そんな不思議な現象に、むしろ食い入るように、傍から見ることがあればとても正気の沙汰ではない状況でしょうが、私は彼の股間をしばらくの間凝視していた、と思います。しかしそれも長くは続きませんでした。
 ごそり、と、地面の方から何か音がしました。
 声を上げることもできずに驚いた私でしたが、何故か今度はわずかに顔と視線を下に向けることができました。しかし思わずそうした私は、直後にそれをひどく後悔しました。でもまるで“それ”に吸い付けられたかのように、またもや顔を背けることなどできなくなった私は、彼の脚に絡まる下着の、その間から顔を覗かせたモノと目が合ってしまいました。

「ぎゅてして」

 ひと咫に満たない程度でしょうか。“それ”はくねくねと蠢き地面に這い出すと、私と目を合わせてそう言いました。途端に総毛立ち、自分を失いそうになりながらも私はそのおぞましい存在が“歩行して”わずかな距離を詰めてくるのを待ち受けるしかありません。
 気の遠くなるほどの時間をたっぷりとかけて精神を凌辱され、衰弱しきった私の意識の糸は、ついにそれが目と鼻の先に迫り垂れ落ちた黒髪のひと房を愛おしそうに撫でたところで、ようやく切れてくれました。嗚呼しかし、記憶に残る最後の瞬間、体がゆっくりと前のめりに崩れ落ちる最中、酸素を求め開かれた口腔に“それ”が飛び込んできた気がしたのです――

 

 いかがでしたでしょうか。
 次に気づいたとき、私は自宅のベッドの上に部屋着を着て寝ていました。
 月曜日の朝。状況が呑み込めない私でしたが、直後に目覚まし時計がけたたましく鳴ったのでそれを機械的に止めると、いつものように顔を洗い、朝食を簡単に済ませ、身支度を整えて講義に出席すべく自宅をあとにしました。

 今日は金曜日。あれからスマートフォンが見つからず、パソコンでSNSにログインしようとするも何故かログインができず、サークルの部室にも足を運べていません。
 先週のあれは深酒で幻覚を見たのだと、そう思います。

 でもおかしいのです。あれからお酒は飲んでいません。

 お酒は飲んでいないのですが、何故でしょう――

 

 

 ――うちのインターホンが、鳴りやまないのです。


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