くまみこのはなし10
10.
「ねえよしおくん! そろそろ起きて!」
「んあ……なんだ送れって?」
学校かどこかへの送迎を頼まれたと寝ぼけているよしおくんを、激しく揺すり続ける。
いつも出勤ぎりぎりまで寝ているような彼にして、こんなに寝起きが悪いことが今までにあっただろうか。
「ち、が、う! ねぇ、もうお昼よ? ナツがどこに行ったか知らない?!」
これだけぐっすり寝ているからには出ていったことには気付いていないのだろうが、昨晩一緒にいたよしおくんなら何かを聞いているかもしれない。
「んー……いてぇ……なんだ、ナツ? あれ」
頭を振りながら、もぞもぞとした動きでよしおくんはようやく体を起こした。
「二日酔いか……? あれ、オレ昨日飲んだかな……よく憶えてないや」
「ちょっと! しっかりしてよしおくん!」
しゃっきりしない彼の背中を何度か叩く。「痛い痛い! 起きたよ!」と言うのでそろそろ勘弁しておこう。
「ナツ……昨日どうしたかな。って、ここナツの部屋か!」
ようやく状況を把握するよしおくん。
私は呆れてあからさまな溜息を吐いた。
「ナツと一晩一緒に過ごしてよく無事だったわね。私だって寝るときは大抵別々よ?」
「いや、だからきっと別々に寝てたんだよ!」
何故かムキになって反論するよしおくん。「冗談よ」と返すと、ふてくされたように黙った。
今日のよしおくんは寝起きだけでなく機嫌まで悪いらしい。
「そうだ、山村さんはどうしたんだ?」
「山村さんとはあのあと、よしおくんちに泊めてもらって、一緒に女子トークしたの」
よしおくんの問いかけに、少し得意気に返答してしまう私。会って間もない都会の人と仲良く会話できたことを誰かに報告したい、誇らしい気持ちがあった。
「そうか、それはよかった。それで今はどうしてるんだ?」
「私は先に起きて、神社のことをひととおりやってたんだけど、ナツが来ないままみんな終わっちゃって、それで様子を見にうちに帰ってきてナツのことを探したんだけどいないの。部屋にはよしおくんが寝てるし、起きないし……」
「ナツのことじゃなくて、山村さんのことなんだけど」
「話はここで終わらなくて! 仕方がないからよしおくんちにまた戻ってみたら、今度は山村さんがひとりで出かけちゃってていないの。まあでも、冷静に考えてナツのことは訊けないからそれでよかったんだけど――」
話していくうちに、よしおくんの表情が見る見る真剣なものに変わっていく。
そんな様子を見て、最後の方は尻すぼみとなった私に、彼は静かに芯の通った声で言った。
「それは、どのくらい前のことだ?」
「……今が11時半くらいだから……2時間くらい?」
「それから会ってないのか?」
「……うん。うちでよしおくんが起きてくるのを待ってたから――」
そこまで聞いて、彼は素早く立ち上がると、土間まで飛んでいって靴を履くのももどかしく、表に飛び出した――ところで、立ち尽くした。
「どうし――」
「ナツーー!! しっかりしろ!」
言葉をかける間もなく、よしおくんは入口の外に姿を消した。
慌ててそれを追いかけ、裸足のままに表に飛び出す。
入口のすぐそばに、ナツが倒れ、よしおくんが蹲り顔を寄せている。その隣にはほのちゃんが立っていた。
ナツの体は全体的に塗れそぼり、ところどころ毛の色が濃くなっている。
一瞬、ケガをしているのかと思ったが、よく見ればそれは泥が付いているだけだった。けれど、意識を失っているのか、ピクリとも動かない。
「え……よしおくん……嘘、よね? ナツ、大丈夫よね? ほのちゃん、ナツは……」
「近くで倒れていたのを見つけ、送り届けたのだ……ただ私は急ぎの用がある。巫女よ、あとは頼んだぞ」
そう言うと、ほのちゃんは足早に去っていく。ナツはまだ動かない。怖くて足がすくむ。
それでも、何かに憑かれたかのような足取りで、1歩ずつ、横たわるナツに近づいていく。
「ナツ……?」
「大丈夫だ。息はある――体調が悪いって、昨日も言っていたんだ」
よしおくんの言葉が耳を通り抜けていく。
どうしても確かめたくて、私もしゃがみ込み、半開きとなっているナツの口元に耳を寄せた。
一瞬を、ひどく長く感じる。
――すぅ。
わずかに息の音を感じた瞬間、ナツの体に縋り付いた。
涙がとめどなく溢れてくる。
するとよしおくんは「ナツが苦しいだろ」と言って私の肩を掴み、わずかにナツの体から離した。それを振りほどこうとしていると、ナツがゆっくりと目を開けた。慌てて縋ろうとするが、やはりよしおくんに押し留められる。必死な形相になっているであろう私の顔を見たナツは一言、「少しだけ、横にならせて」と言うと、そのまま意識を失った。
もう私は心の抑えが利かなくなっていた。半狂乱となりナツに飛びかからんばかりの私。その腕をよしおくんは乱暴に掴んだ。そしてそのまま家の中に引きずり込まれる。私は悪態を吐き、いつものように彼に殴りかかろうとしたが、大人の男の力で覆い被さるようにして押さえ込まれてしまった。その事実にショックで体が硬直する。
「そうしているだけじゃ、ナツは悪くなるばかりだ!」
そしてさらに叩きつけるように怒鳴られた。
「お前であろうと、頑張っているナツの邪魔をしようとするのなら、容赦しないぞ」
零下の声色でそう告げられると、ナツを失うものとは別種の恐怖がそれを上塗りしていく。
やがて完全に体の力が抜けた私を見て、ようやくよしおくんは力を緩めた。
それから身を離すと、深く頭を下げられた。
「まち、本当にすまない。乱暴なことをした」
言いながら立ち上がり、室内に向かい歩きだしながらさらに続ける。
「でも、手伝えないならせめて、大人しくしていてくれ」
糸が切れた人形のように動けないでいる私を置いて、よしおくんは手早くタオルを探しだしてくると、ナツの方へ取って返す。
まずは濡れた体を乾かして体温を下げないようにしなければならない――当然のことだった。
* * *
村に医者はいない。
つまりナツに医学的な処置ができる人はどこにもいないということだ。
ナツはこれまで大きな病気やケガをしてこなかったので気付かなかったが、ナツ自身そのことをよく肝に銘じていたためであろう。
しばらく表で倒れていたナツだったが、30分もしないうちに再び目覚めた。
そしてなんとか起き上がると、土間まで入り、そこでしばらく休憩をして、それでまた起き上がる――そうやって、少しずつ少しずつ、時間をかけて自分の部屋に戻った。
よしおくんは無理に動くなと言っていたが、ナツは落ち着かないからと聞かなかった。
私は先程のショックで、未だに言葉を発せていない。接近を禁じられたようで、ナツともよしおくんとも微妙に距離をあけ、状況を見守ることしかできないでいた。
ナツが部屋に戻ってから、よしおくんはナツと言葉少なにいくらか会話をしているようだった。
私は部屋の外で待っている。
自分が無様な体を晒し、とっさにああするしかなかったことを頭では理解していたが、よしおくんにすっかり怯えていた。
やがてよしおくんはナツの部屋から出てくる。
びくり、と私は身を竦めた。
「あらためて、申し訳なかったな……まち」
優しく話しかけられたが、彼の顔を見ることができない。
「赦してくれなくても、仕方がない。でも、わかってくれ……」
「……」
言葉が出てこない。
黙り込む私に、しばらく様子を見てくれていたよしおくんだったが、ゆっくりとした動作で私の目の前にタオルと桶を差し出した。
「お湯を沸かして、タオルを浸す。タオルは固く絞って、ナツの泥を落としてあげる。できるな?」
そう言うと、彼は私の足元に差し出したものを置いて、距離を取った。
よしおくんが離れたことで、金縛りから解かれたように体が動くようになる。
そちらの方を見ないようにしながら、置かれたものを拾った。
「頼んだぞ」
背後から声がして、よしおくんはうちから出ていった。
体の力が抜け、倒れ込みそうになったが、壁に手をついてなんとかこらえる。
私は、指示された内容以外何も考えないようにしながら、人形のようにそれをこなしはじめた。
つづく