「犬」
「犬」に一家言あり。
と真面目に言えるつもりではありますが、それも「百合」みたいなものであって、ジャンルの闇が沈澱しているのです。
闇の澱をもってして、それをジャンルとするのでありますから、「『百合』界隈」に対して抱く、小気味の良くない印象も畢竟、それが私の胸に去来した感情を客観視したものと変わりがないのだと、そう思わされて忸怩たる思いがいたします。
でありますからして、私は信仰をもって叫ぶのです。
「『犬』はバカじゃない!」
と。「猫」の文脈で弄ばれるものと同一視しないで! と。
ただそれも、「猫」のすべてではないわけです。
細かく言えば、私が「猫」に思う嫌な要素なのであって、「猫」を好む人が個々人でどういった集合を「猫」と呼ぶのか、何を「猫」として気に入るのかということは闇に沈んでおりますから、それはもう、個々人が信仰するしかないのです。
つまり、負のイメージでの「猫」を私は信仰しているということになります。
このように、あるジャンルと呼ぶ集合体「」においては、数多の要素から自分が好ましく思うもの、逆に嫌うもの、はたまたどうにも思わないがどのようにか認知できるもの、といった数多な特徴をもって上手く選んだものをそれぞれが信仰しているにすぎないと考えています。
信仰は、自らの裡にしか根拠がありません。
信仰を広めてもいいですが、根拠はそれぞれの裡にしか存在し得ませんから、ジャンルの全容は同一なものにはなり得ません。
同一になり得ない以上、どこにも線を引いてはいけないと思います。どの程度被っているから良い悪いという判断自体をするべきではないと考えているのです。
すべてを闇で覆いましょう。
澱のように疎密で曖昧に沈みましょう。
これが、かつて言っていた『ジャンルの闇』というお話の概要でした。