たしかに正しいけど、その通りだけど。

ブログじゃないという体でまとまった文章を置いておきたい場所

くまみこのはなし9

9.

 

 翌朝、私が目覚めると、隣の布団で寝ていたはずのまちさんはすでにいなくなっていた。

 ゆっくりとした動作で携帯を確認すると、時刻は8時を過ぎたところだった。

 昨晩はまちさんからいろいろな話を聞くことができた。さすがに警戒されている部分もあったようで、終始どこか奥歯に物が挟まったような物言いであったが、元々の引っ込み思案さ故か、普通の雑談であれ似たようなものだった気もする。

 身支度を整えながら昨日村を見て回ったことや良夫さんとまちさんから聞き取るなどして得られた事実を反芻する。一番気になったのはアイヌ神話式神であるカッパ追い祭りでも山の女神に捧げる男根信奉の祠でもイナウに酷似した御幣でもなく、『おしおき穴』なるものの存在だ。

 詳しくは不明であるが、悪さをした子供を一晩「閉じ込める」ことができる構造の穴らしい。

 これは神域の中にあり、かつては別の用途があった可能性が極めて高い。

アイヌで熊といえば熊送り――」

 熊送りにおいて熊はしばらくの間、村で飼われるという。

 大きくなった熊は当然、檻で飼わなければならない。

 

   *  *  *

 

 良夫さんのお母様から朝食まで御馳走になった。どうも彼は昨夜出かけてから帰っていないらしい。これからの行程は付きまとわれてしまうと困るので好都合だった。

 昨日村を回っているときに何度かまちさんの祖母だというフチという名を耳にした。当然その大刀自が村の暗部を司る黒幕であろうが、彼女は今、不在にしているという。この機を逃す手はない。

 良夫さんのお母様に礼を言い、雨宿宅を後にする。「よしおに会ったらよろしくね」と言われたが、できれば遠慮願いたく、曖昧な笑顔を返すに留めた。

 

   *  *  *

 

 人気のない林道からけもの道に逸れた。それからしばらく下り、小さな沢を見つけると、方向に気をつけながらその淵を下っていく。『おしおき穴』のある神域は神社の奥に存在するはすだ。

 まちさんに聞いたところによれば、彼女の家は熊出神社のさらに先、丸太橋のかかった比較的大きな沢を隔てた向こうにあるという。その橋はたびたび流されていて、そうなれば新しい橋が架けられるまで孤立してしまうという話だった。

 彼女の家は、神域の入口にそれを守るように建てられているのだろう。そして、一般の村人が神域の深くまで立ち入ることはあまり考えられない。つまり、目的地は彼女の家の近く、沢を上った先にある丸太橋を目印に、近辺を探せばよいことになる。道なき道を行くことになるが、ある程度は仕方がない。

 慣れない移動に息が上がりはじめるが、知識欲でそれに耐えながら先を進む。

 足元に附子の花が集まっている。気を紛らすように、その可憐で危険な紫の花弁をじっと見つめて黙々と進んでいく。

 闖入者を拒むよう進むごとに厳しくなる原野に対し、逆に精神は高揚していった。

 それは、道を逸れて30分ほど歩いた頃だった。

 木立の先に広場のように抜けて平たく見える所がある。少し逡巡したが、人為的に拓かれたと思しきその場所に妙に惹かれ、沢を外れていくと――そこには、何かの畑があった。

 整然と並んだ畝に低く這う植物は、なんの実も付けていない。しかし、一面に同種の植物が植えられているために、これが栽培されているものだとわかった。

 こんな山奥に人目を避けるようにして栽培されている植物がなんであるか気になった。しかもよく考えればこちらは神域の山側。つまり神域内にある畑ということになる。

 ちなみに麻のような葉ではない。もっと背が低くて葉は小さく、茎が弦状に伸びている。マメ科だろうか。

 じっくり調べたい気持ちもあったがここが畑である以上、作業のために村人が表れる可能性は大いにあるわけだ。計画が途中で頓挫することを恐れた私は、一応その植物を採取すると、足早に元来たルートを戻っていった。

 

   *  *  *

 

 何度目か、地図を確認したところで沢は大きく斜面を回り込み、突然視界が開けた。

 今まで頼りに歩いていた沢は比較的幅員の広い流れに注ぎ込んでいる。沢というより川である。

 歩き続けてすっかり体力を消耗していた私は、その水面近くに腰を下ろし、一度休憩を取ろうと思った。その川を少し上ればその周辺が目的地のはずだった。

 木立から一歩踏み出す。陽の光に一瞬眩しさをおぼえて目を細めた。

 視界がはっきりとすると、向こう岸の少し上流、木立から少し離れた位置に熊が直立していることに気付いた。一瞬、ナツさんかな? と思ったが、考え直す。

 ここは熊出村。本物の熊が出没することだってありそうなものだ。本物の熊であれば襲われかねない。

 しかしさらによく考えれば、もしそれが本当にナツさんったとしても、この場にいることを悟られてはならない。私は聖域を侵しているのだ。

 そう結論が出た頃、ナツさんと思しきその熊は、どこか苦しそうに屈んで、四足でよろよろと歩くと水際の平らな岩の上に乗り、力なく尻もちをついた。

 離れるなら今しかない。そう思ったが、この位置関係だと今は視界に入っているかも知れず、下手に動くことができない。

 そうこうしているうちに、事態は悪い方へと転がっていった。

 その熊の腕はだらりと垂れ下がり、小刻みに揺れるような奇怪な動きをしはじめたのだ。

 その動きに、ひとつの憶測が頭をよぎった。

 やはりあれはナツさんであり、あろうことか、人目がないと思いその着ぐるみを脱いで休憩でもとろうとしているのではあるまいか。

 いよいよまずいと思ったが、動向を伺わないことには逃げ出す機会も掴めないため、目を離すことはできない。よもや、声をかけやめさせることもできない。

 八方ふさがりだ。静観するしかない。

 そして、ついに決定的な光景が繰り広げられる。

 熊の首があらぬ方向に倒れた。

 両腕が肩口からひしゃげた。

 背中から、もぞりと黒い頭が飛び出した。

 熊の形をしていたものが畳まれるように前傾する。

 中に入っていたものが、不安定に揺れながらすらりと立ち上がる。

 その巨躯は膚が異常なほど白く、それでいて筋肉質で、それでもその腰まで届こうかという黒髪がまとわりついた薄い乳房、淡い色の乳頭、鬱蒼とした茂み、長く逞しい脚――

――あれは、なんだ?

 想像していたものと大きく異なる何かが表れ、先程までの浮ついた気持ちが一転する。

 後頭部が痺れるような感覚に襲われる。ぎっちり詰まった空気に押さえつけられるような感じで、意識的でなければ呼吸もままならない。

 すぐに立ち去ればよかったという後悔だけが胸に押し寄せる。

 目の前の光景が、その先に立つそれが、ひどく現実感のないもののように思えてくる。

 徐々に視界が白けていく感覚。

 それは身を乗り出すようにすると、川の流れに吸い込まれていく。

 その刹那、前のめるそれの、髪の間から覗く瞳と目が合い、それが驚いたように見開かれた。

 一連のシーンが、まるでスローモーションのように感じられたとき、脇腹から大きな衝撃を受け、体の上下がわからなくなった。

 意識を失う間際、黒い獣の唸りを聞いた気がした。

 

 

つづく


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