たしかに正しいけど、そのとおりだけど。

ブログじゃないという体でまとまった文章を置いておきたい場所

コトリバコ×ゆるゆり 第十話(最終話)

 

◆解答編 - コトリバコ

 

 もちろんごらく部及び生徒会主要メンバーの同時変死はその日のうちに発覚し、近隣地域は騒然となった。
 当然学校は数日間の休校となり、関係各所は厖大な事務処理に追われることとなった。彼女たちの非日常は、そうして皮肉にも彼女たちの死後、その持ちえた世界に遍く拡がったのだった。
 死因や交友関係等を勘案され、一連の死亡事件(事故?)被害者には向日葵の名も書き連ねられた。
 西垣教諭の連絡後数分で救急隊員が七森中内茶室に到着したが、現場で速やかにそこにいた池田千歳、杉浦綾乃、吉川ちなつ三名の死亡が確認された。同じく現場にいた池田千鶴は当時かなり衰弱していたが命に別状はなかった。大事をとって数日の検査入院となったが、翌日にはもう何事もなかったかのように健常であったという。
 古谷向日葵は自宅で急性症状を起こし救急搬送先で原因不明の急死。赤座あかりは体調不良で自宅療養をしていたが、池田千歳ら三名が死亡したほぼ同時刻に自宅で同様の症状を起こし死亡していた。
 また、救急通報のあった直前まで茶室にいた船見結衣及び歳納京子は、船見結衣が平時下宿していたアパートの一室で折り重なるようにして死亡しているのが、同日のうちに発見された。血塗れの女子生徒を見たとの近隣住民からの通報を受けての捜索によるものだった。検死によればやはり交友関係のあった同校生徒と同様の死因であったという。
 直接の死因は、皆に共通してあった消化器に対しての重篤な損傷に起因するものであり、急性のものでは失血性及び痛覚刺激による神経原性のショック死、亜急性においては敗血症と見られる高サイトカイン血症によるショック死であった。
 原因の究明は困難を極めた。
 遅行性の毒による他殺、集団食中毒、集団自殺、未知の感染症罹患といった過激な憶測がいくつもなされたが、直接の原因はわからずじまいだった。

 

 事件から短くない時間が経ち、櫻子は喪服に身を包んでいた。本日は被害者生徒の合同葬ということで、朝から落ち着かない気持ちで過ごしていた。
 あの日、親しい友人を一気に失ってからの櫻子は、しばらくは昼も夜もないような生活をしていた。当然、今もまだその傷は癒えておらず今日の葬儀もなんとか出席できた。
 葬儀自体はつつがなく終了した。式場にはもちろん千鶴の姿もあったのを、櫻子は静かに確認した。彼女と自分、家族と親友という違いはあれど、同じ大切な人たちを亡くした者同士、多少は想うところがあった。
 式場を後にしようとしたとき、脇から櫻子を呼び止める声があった。西垣教諭だった。少し櫻子に話があるということだった。櫻子が不安定なこともあり、一緒に葬儀に参列していた彼女の家族は眉をひそめた。しかし、教諭の背後に千鶴の姿を認めた櫻子は、不意にどうしても彼女と話をしてみたくなり、なんとか家族の了承を得た。
 西垣教諭は千鶴とともに櫻子を別室へと通した。
 そこはテーブルと椅子が何脚か用意されただけの控室のような小部屋で、テーブルの向こうには既にりせが座っていた。
 意外な人物の登場に櫻子は一体何が始まるのかと不安な気持ちになったが、黙って促されるままに入り口近くの席に着いた。千鶴も神妙な面持ちで隣の席に、西垣教諭は櫻子の向かいの席へと腰を下ろし、四人で向かい合うような形となる。
「さて……悪いね、手間を取らせてしまって。ちょっとふたりに訊きたいことがあるんだが……」
 ゆっくりと教諭は話を切り出したが、教諭らしく一呼吸おいて、聴き手の注目を集めた。
「まずはあの子たちのために改めて少し手を合わせようじゃないか」

 

「質問のためにちょっと遠回りになるんだが……真剣に捉えてもらうためには仕方がないんだ。我慢してくれ」
 西垣教諭の話はまず不思議な前置きがあって、彼女の専門らしからぬ歴史の授業のような話題から始まった。
「戦国時代ほどじゃあないが、結構昔の話だ……ある西の方の村に、落ち人が逃げ延びてきたんだ」
 話す内容も、その立ち居振る舞いから感じる雰囲気までもが普段の教諭を知っている者が見たら別人かと見紛うほどに豹変していた。
 櫻子と千鶴はその雰囲気にすっかりと呑まれてしまって、ただただ黙って彼女の話に没入していった。
「その村というのが、所謂被差別部落だったんだが……聞いたことぐらいはあるだろ? 道徳の授業なんかで習ったな?」
「……」
 横に座るりせは置物のように微動だにしなかった。しかしそれを気にする者はいない。
「その村としては、訳有りげな余所者を入れることで厄介事が増えるのを嫌って一度はその人を追い出そうとしたんだそうだ。そこでその落ち人は交換条件として村に、ある武器の作り方を教えた……」
「そういった村というのはそこを管理する庄屋のようなところがあって、そこから特に強い迫害を受けているという事実があったらしい。それに対抗するための武器を授けようという話だった。そして武器というのは呪いの道具だったんだ。その作り方が非常に残酷なんだが……聞いてもらう」
 有無を言わさずといった風に、西垣教諭の話は澱みなく続いていく。
「材料として用いるために赤子を殺す必要があったんだ。
 でもその人はなぜわざわざそんな恐ろしいことをしなきゃいけないものを紹介したのだろうか……それは今となっては非常に悲しい話になるが、当時の村が今からは考えられないほどに貧しい暮らしをしていたことが関係している。
 貧しいというとお金がないというイメージだろ? でも昔はもっと直接的で、要するに食べる物がないわけだ。
 食べ物なんて昔なら農業で自給自足してそうなものだと思いがちだが、その農業も今みたいに機械がないから効率的にはいかない。となると人手が要る。
 さて働き手を増やすためにどうしたか……子供をたくさん作ったんだ。今は少子化が叫ばれているが、逆に言えばちょっと昔は子だくさんなのが当たり前だったわけだ」
 閑話休題。ちょっと失礼と西垣教諭は手持ちのバッグから飲み物を取り出して一口含んだ。それから「君たちも飲むか」と訊ねた。ふたりは首を振ったが、教諭はりせにお金を持たせると飲み物を買いに行かせてしまった。
 さて、と話が再開される。
「話が少し逸れたが、飛ばしてしまうと説明がしづらいんだ。
 えー子供が多いという話までしたな? そう、その村は貧乏で食べるものはないのに食べるものを得るために子供はたくさん作ったんだ。子供は当然食べなきゃ成長できないが、そこはなんとかぎりぎりでやっていた。
 でも農業というのは非常に不安定だから……梅雨が長いとか涼しすぎる夏だとか、そういった人の力ではどうしようもない気候によって収穫物はすぐに影響を受けてしまう。それを見越して子供を作るなんてことはできない。じゃあどうしたか……っていうと、それが悲しい話なんだが……」
 千鶴には予想がついていた。久しく他人と会話をしていなかった櫻子は特に何も考えることができずにいた。そういった性質の違うふたりに同程度理解させようと、西垣教諭も話しつつ苦心していた。
「どうしても食べるものがない年には、折角世に生を受けた大事な子供を殺めてしまったんだ。どうせ満足にご飯を食べさせてやることもできない。生かしてはおけないと。
 そういったことが日常的におこなわれていた村だった。話を戻すと、逃げ延びてきたその人はその事実を知っていたんだ。だから村にとっては赤ん坊を殺す必要があるというのはそれほど高いハードルではなかった。
 むしろ鉄を打つ必要がある直接的な武器の方が材料や技術などの問題で無理があった」
「そういうわけで、村は落ち人を受け入れることに決めた。赤ん坊を殺して呪いの道具を作った。
 その道具の形は一見するとただの箱のようなものだ。さてそれをどう使うか……これがとても簡単だ。ただ呪いたい者の近くに置けばいいということだった。その手軽さも受け入れられた理由の一つだったのかもしれないな。何せ殺し合いにならないわけだから、仕掛ける方からしたらとても安全だ」
「さて、その呪いの効果なんだが……女性と、子供が何の前触れもなく死ぬんだ。恐ろしいだろう? ただ近くに置くだけで、突然女性と子供が死ぬんだ。しかもその死に方というのがこれまた恐ろしくて――」
 西垣教諭はちらりと千鶴の様子を窺った。少し顔が青ざめて見えるがまだ平静は保たれているように見えた。
「突然おなかを押さえて苦しみだしたかと思うと、大量の血を吐くんだそうだ。体の表面に怪我がないのに、内臓が千切れてしまうということらしい」
 大量の血、というところで千鶴の表情が強ばった。一方の櫻子の反応は薄い。それも当然のことで、彼女はあの惨劇の現場を知らないでいるのだ。
「その武器……箱と呼ぼうか。その箱は見事に村を迫害していた者を滅ぼして、それからその村が迫害されることはなくなったということなんだが、その後もしばらく作りつづけられていたらしい。そしてあるとき事故が起きてしまったんだ」
 千鶴の表情が優れない。しかし西垣教諭は元より恐慌状態に陥りでもしない限りは最後まで話してしまうつもりだった。
 ちょうど良いタイミングというべきか、飲み物を買いに出ていたりせが戻り、ふたりに配った。ふたりともそれに手をつけようとはしない。
「その箱の呪いというのは、残念ながらかける相手というものを選べないものだった。近くに置くだけで発動する簡単なものだったけど、融通は利かなかった。つまりある程度近くに存在する女性や子供なら誰でも、見境なく、無差別に苦しめて殺してしまうものだったんだ。
 そうだ。事故というのはほかでもない。呪いを仕掛けた村の子供が、その箱が原因で死んでしまったんだ。
 近づいたからってすぐに死ぬものでもなくて、ある程度の日数が必要だった……だから例えば、殺したい相手の家の縁の下に埋めるとか、そういう方法で一定の範囲内に一定の期間対象が存在するようにするわけだ。でもその呪いは近ければ近いほど強くなる。例えば、直接触るとか……いや、それぐらいならまだ早々死ぬわけじゃない。もっと良くないのが、箱の中身を外に出してしまうことだ」
 今度こそ、千鶴は体を跳ねさせて小刻みに震えはじめた。
「外を覆う箱が、中身の呪いの本体ともいうべきものの強さを調整しているといった仕組みになっているらしい。特別な木材を用いていて、それで隙間なく覆うことでそれは実現されるらしいんだが……一度作ってしまったらもう開けることはない箱なんだ。むしろ簡単に開いてしまっては困る。
 ではどうしたか? パズルのような箱を作ったんだよ。
 いくつもの小さな部品を組み合わせて箱のような形にした。ただ蓋を嵌め殺しにしたらいいじゃないかと思うところだが……その構造自体にも何らかの呪術的意味があるのかもしれない。まあそこまで詳しいところは残念ながらわからないんだ。そもそもこれは口伝でしか伝わってない……おっと、失礼。話が逸れたな」
「とにかく、見た目にはちょっとしたおもちゃみたいな箱なんだ。それを子供が見つけてしまったら……あとはわかるだろう?」
「村の中でそんな事故があって、初めて被害者になることで、この呪いがいかに恐ろしく手に余るものであるかというのを理解したわけだ。しかしこの箱の処分がまた厄介だった」
「強い呪いの力を持つこの箱……今はコトリバコと呼んでいるものなんだが……その供養には結構な時間経過と専用の呪いが必要だった。そして現在もまだ供養しきれていない箱が残っているんだ。当然、それを供養するための技術も継承されている」
 西垣教諭はここで一度言葉を切って、りせの方を向いた。りせはゆっくりと頷く。
「そこに座る松本りせが、代々コトリバコを供養する役目を負っている神社の神子だ。そして私はそれを補助する者だ」
「…………」
 西垣教諭の話が一旦切れる。千鶴はいいとして、櫻子の方は未だに反応らしい反応を返さない。教諭は話を再開する。
「りせはコトリバコを管理・供養している家の長女で、近い将来に現存する箱を供養する役目を担っている神子だ。そして私は、りせが幼少期に神子を継ぐことになった際にその役目を仰せつかった神子の世話係といったところだ。
 さて、大体の事情がわかっていただけたところで最後に質問だ」
 西垣教諭はまくしたてる。櫻子は無表情で、千鶴は痛みに耐えているかのようにその言葉を待った。
 ごくりと教諭は水分を喉に通してからふたりに訊いた。
「君たち、あのコトリバコがどうしてあそこにあったのか、知っているか?」

 

 九月三日火曜日、櫻子が箱を持ち出してから二日目にはりせの元へコトリバコ紛失の連絡が入っていた。箱の安置されていた祠付近に残っていた痕跡等から、子供が持ち去った可能性が高いところまではすぐにわかった。これはとてもまずい事態だった。経年により作成時よりも効力が落ちているとはいえ、できるだけ早い回収が望まれたが、あまりに手掛かりが少なく、捜索は困難だった。
 しかしその翌日りせは学校でかすかに箱の気配を感じた。
 初めにそれを感じた場所は生徒会室だった。生徒会室には月曜の昼休みに櫻子が向日葵とともに箱を持ち込んでいたことから、その残り香のようなものを感じ取ったらしい。それは非常に微々たる気配であって、気のせいと言われれば納得してしまいそうなものだった。しかしそのときは少しでも手掛かりが得られるならと藁をも縋る思いで、西垣教諭と生徒会室をくまなく探したがそれ以上の痕跡は得られなかった。
 その翌日、りせは廊下ですれ違った生徒から、再び箱の気配を感じた。しかしそれが誰であるかは特定ができなかった。
 りせはその血によって生まれながらにして邪なるものを祓う資質は備えていたが、そもそも箱は安置されているものであって、所在不明のものを探索するようなことはしたことがなかったのだ。
 そしてようやく金曜日になって、りせはごらく部メンバー及び生徒会の二年ふたりに当たりをつけ、昼休みに話を訊こうと生徒会室に呼び出した。そこには偶然櫻子も来たが、櫻子からは箱の気配が感じられないこと確認済みで、そのときに再度確かめてみたがやはり大丈夫そうだった。
 呼び出した全員が集まり、あとは西垣教諭が来てさて話を訊こうという段になって、向日葵の訃報が入った。西垣教諭が医師や向日葵の母に確認したところ、どうも症状からしてやはり箱による被害である可能性が高いようだった。最も危惧していた被害者の出現に、関係各所は大混乱となった。
 大昔ならいざ知らず、現代では死に対し詳らかにしようとするものだ。箱に関することはその由来などに係り、タブー視される性格がとても色濃く残っている。どうにかなるべく秘密裏に被害を食い止めねばならないと考えられ、結果土日を通して様々な対策が講じられたが肝心の箱は発見されなかった。ごらく部の面々に当たりをつけていたのがわずかに外れ、向日葵に被害が出たことに加え、なぜか櫻子にはまったくそういった気配がなかったことがより一層の混乱を招いた。
 結論として、向日葵が関わっていた可能性が高いという事実は宙吊りになってしまった。りせが向日葵の自宅近くに赴いても気配が感じられなかったことから、死人に口なしの状態になってしまったのだ。そしてショックを受けた面々は自宅に籠っており話を訊くこともままならなかった。
 そして翌月曜日。彼女らは全員登校をしてきた。これ幸いと接触を試みた。ゆっくりと時間を取ろうと放課後に話を訊くことにした。昼休み、西垣教諭は廊下を歩く綾乃と千歳を見つけ、放課後に時間はあるかと訊ねた。千歳は友人と会うので無理だと回答した。その友人は京子や結衣かと訊ねるとそうだと言う。それでは少しだけだから時間をもらえないかと皆に話してくれるよう頼んだ。千歳はすんなりと了承した。
 そして放課後、西垣教諭とりせは生徒会室で待機していた。しかし一向に彼女らは現れない。不審に思っているとりせが血相を変えて生徒会室を飛び出した。その頃、部室では綾乃がちょうど箱を破壊していたのだった。

 

 散々捲し立てた後に突然訪れた静寂にまったく違う反応を見せるふたり。千鶴は青ざめて理解を拒むかのようだったし、櫻子はこの間は一体なんだと言わんばかりの顔をしていた。
 ふたりを一挙に同じステージに立たせるために、西垣教諭はより直截的な言葉をぶつけた。
「君たちの大切な人はコトリバコの呪いで死んだんだが、その箱を誰がどのように持ち込んだか知らないか?」
「呪い? 向日葵は呪われたの?」
 要領を得ない櫻子。理解を無意識に拒否しているのは彼女も同じなのかもしれなかった。
「だから今話したように、コトリバコが実在していて、古谷を含めてみんながその呪いで死んでしまったんだ。りせがその管理をしている。厳密には違うんだが……そうか。そこも話すか? もう当事者みたいなものだろう」
 教諭に「なあ、りせ」と話を振られた彼女は曖昧に頷いた。
「箱は制作に関わった者の子孫が現在も保管しているから、直接管理しているのはその人たちだ。コトリバコというのは近づいただけで人に害をなすから、普段は人気のない所に安置されている。
 しかしつい先日、安置されていたはずの箱が忽然と姿を消したんだ。もちろん関係者は大騒ぎで、必死になって探し回ったが見つからない。そもそも置いてあった場所が人目につかない所だったわけだからな」
「なんとか手がかりも少ないままに探していたんだが、先週末になってどうやらうちの生徒が関わっているらしいことを突き止めたんだ。そして話を訊こうとした矢先に……」
「…………」
 箱。人目につかない所にあった箱。消えた箱。七森中の生徒と箱。先週末。
――箱で? あの?
 櫻子の精神が慌てて思考にストップをかけようとしているのが、彼女自身よくわかった。しかし無情にも西垣教諭の話は滔々と続いていく。
「でも箱の場所はわからなかった。皆ショックが大きく、話を訊くこともままならなかった。そしてそのまま週が明けて月曜日――」
「やめて!」
 千鶴が叫んだ。櫻子は現実に引き戻された。西垣教諭は沈痛な面持ちで頭を下げた。
「すまない。関わっていたことがわかっていながら救ってやることができなかった……本当にすまない。いくら謝っても謝りきれるものではないが、本当に申し訳なかった」
 りせも深々と頭を垂れた。しばらく千鶴のすすり泣く声が辺りに響いた。
「箱の事情などごく一部の者以外は知りようもないことだ……だから誰が箱を持ち込んだかを知ったからと言ってその人を恨んだりしてはいけないし、こちらも責任を求めるものではない。ただ、管理する側として、原因を追究する義務はあると思っているんだ」
「何でもいいから、知っていることを話してもらえないだろうか」
 千鶴は泣き止み、重い静寂が辺りを包んだ。
 やがて、千鶴が訥々と話し始めた。
「箱と言えば……姉が、土曜日曜と、様子がおかしくて。なんだか、悪いものに取り憑かれたかのように、何かを調べてたんです……」
 苦しそうに、生前の姉の奇行を話す千鶴。西垣教諭は黙って頷き、先を促した。
「深刻な様子で、祖母に何か訊きに行ったり、図書館で山ほど本を借りてきて……こっそり見たら、箱とか呪いとか、さっき聞いた話みたいな、私全然、また、姉さんのこと……」
 終いには泣き出してしまう千鶴に、西垣教諭は温かな眼差しを向けた。
「わかった……ありがとう。お姉さんはもしかしたら、真実に迫っていて、みんなを守ろうとしたのかもしれないな」
 それを聞いた千鶴はさらに泣き崩れた。
 一方の櫻子は絶望的な表情をして黙りこくっていた。さすがの櫻子でも何が起こったのかをはっきりと理解した。とてもじゃないが、自分がやりましたとは言い出せる雰囲気じゃなかった。
 西垣教諭とりせは、まさか櫻子が箱をあの場から持ち出した張本人であるなんてことは微塵も想定していなかった。なぜなら今、ここに生きて健在だからだ。さらに言えば向日葵が死んだ日、偶然生徒会室に来た櫻子に対して、りせは念のために少し念入りに様子を窺った。しかし櫻子からは箱の気配など微塵も感じなかったのだ。だからこそあのような訊き方をした。このような場を設けた。ふたりは当事者ではないだろうが、間接的であれ何か糸口となるような情報が得られる可能性が少しでもあるのであれば、と考えていた。
 他人とは久しぶりの接触であった櫻子は皮肉にも、今までに経験したことのないほどに短時間で集中して思考せねばならない状況に追い込まれていた。しかしこれは投げ出していい思考ではない。櫻子は必死になって悩んだ。知らないと言い張ることもできる。しかし事実を知ってしまった以上、櫻子の中から呵責が完全に消え去ることはない。親友を殺したという事実、そして千鶴に対して双子の姉を殺されてしまったという事実を隠すこと。たくさん考えて、それらを抱えたままにこの先、生きながらえていくことは不可能に思えた。
 櫻子の視界は滲み、手や唇は震え、喉は思うように絞れない。しかし覚悟を決めて、三度大きく深呼吸をすると、櫻子は言葉を発した。
「私です」
「……」
「……どういうことだ?」
 櫻子の言葉を聞いたりせは、目を細めた。西垣教諭は断片的な言葉に一瞬問い返したが、その穏やかでない様子にはたと思い至る。
――いや、まさか……私だって触れないんだぞ?
 真意を上手く呑み込めずにいると櫻子が続きを話し始めた。
「私が、みんなで箱を開けようって言ったんです。森の中で見つけたんです。気づいたら、持ち帰ってたんです」
「おい、そんなっ、……りせ」
 混乱する西垣教諭の言葉をりせが腕を広げて遮った。その瞬間だった。
「お前か!! お前が姉さんを殺したんだな?!」
 千鶴が激昂し、櫻子につかみかかっていた。櫻子はなすがままになっている。自分よりも正気を失った者を見て、西垣教諭は落ち着きを取り戻した。
「やめろ! 悪いのは私たちの方なんだ。さっきも言っただろう? 大室は何も知らなかったんだ!!」
 教諭は謝罪を繰り返しながら、我を忘れた千鶴を取り押さえて櫻子から引き離す。
「……」
「そうだなわかった。ちょっと池田、落ち着くんだ」
 目の前に櫻子が居ては千鶴がいつまでも落ち着かないだろうと考えたりせは、櫻子を連れて無理やり退室した。
 世界が自分を拒絶しているような、自分が世界を拒絶しているような、死にたい気持ちで櫻子はふらふらとりせの手に引かれ歩いたが、目の前のりせが急に立ち止まったために危うく転倒しそうになる。
 反射的に顔を上げた櫻子は、今最も顔を合わせたくない人を認めた。
 向日葵の母がそこに立っていた。
 心身ともに衰弱していた櫻子は卒倒しそうになったが、りせの手が櫻子の背中を軽く押すと、貼り付けられたかのようにその場に立ち尽くした。
 向日葵の母は櫻子に近づくと、その手に小さな紙袋を渡した。そしてその由来を話した。
――突然のことだが自分たち家族は引っ越すことにした。楓もまだ小さく、いつまでも後ろ向きではいけない。引っ越しに際し、向日葵の部屋を片付けていたら机の中からそれを見つけた。それは櫻子への誕生日プレゼントだ。九月頭の日曜日にそれを買ったらしいが、渡しそびれたことを、向日葵が今際にとても悔やんでいた。今の今まで渡せなかったことを謝らせてほしい――
 涙ながらに向日葵の母は話し切り、深々と頭を下げるとゆっくりと踵を返した。
 櫻子はその姿が見えなくなるまで一言も発することができずに固まっていた。そして、視界から向日葵の母が消えた瞬間、その場にへたり込んだ。涙は流れていない。感情の源泉が枯渇しているかのような有様だった。
 りせはそんな櫻子を見て、とても艶やかな笑みを浮かべた。
 それは誰にも気づかれない、ひっそりとした笑みだった。

 

 りせの家は由緒正しい神社の家系だ。そして男系の家系だった。お堅いしきたりに囚われているといった話ではない。家督を継いで神主となれば必然的にコトリバコと対峙することになるのだから男性であるということは神主として不可欠な資質であった。裏を返せば当然、「女性は家を継ぐことができない」ということになるのだが、それが意識されたことは、ほんの十数年前までなかったのだった。
 西垣奈々はコトリバコの管理者を代々務める松本家の分家筋に生まれ幼少期より本家にはよく訪れていた。そして、自然と松本家の神社で巫女の手伝いをするようになっていた。
 手伝いを始めてすぐに、松本家にりせが生まれた。奈々は実の姉のようにりせの世話をし、かわいがった。
 そのうちに奈々は松本家の抱えるコトリバコの管理者という重大な役目について聞き及んだ。しかしそれは代々長男が神主を継ぎ、遂行しているものだという。それを知り、奈々は多少の納得を得た。松本家の人間から、りせに対して興味関心が薄いというような雰囲気を感じていたのだ。りせに早く弟ができて、真っ当に愛される日が来ることを願った。そしてそれまでは自分が愛を注ごうと思っていた。
 小さなりせと一緒に食事をとった。小さなりせと一緒に遊んだ。風呂に入った。散歩に出かけた。小さなりせはよく泣き、よく笑い、よく話す、感情豊かな子だった。いつでも奈々の後を付いて回った。
 しかしそんなりせが五歳となった年の夏、更なる不幸が彼女を襲った。りせの両親が事故で亡くなったのだ。跡取りができぬままに血が途絶えてしまったことで、松本家は騒然となった。奈々はそんな本家の騒動に嫌悪感を抱いた。彼らは両親を一度に亡くしたりせのことなど見向きもしない。皆がその家系にのしかかる百年余りの呪いにすっかり冒されているようだ。奈々は以前にも増してりせとの関わりを深めていった。彼女のことを守れるのは自分しかいないと思った。
 それから数か月後のある日、唐突にりせが姿を消した。奈々がいくら行方を尋ねてもりせの祖父母は頑なに詳細を離さず、話を逸らし続けた。彼女はこれ以上は逆効果だろうと深く追及することをやめ、静かに様子を探ることを優先した。しかし彼女の存在は忽然と消えてしまって、それきりだった。
 半年ほど経った春先、絶望しかけていた奈々がいつものように松本家の神社を訪れると、祖母に手を引かれたりせがそこに立っていた。そして呆然と立ち尽くす奈々にりせの祖母は今日からこの子の世話をするようにと告げ、その場を後にした。久しぶりの再会に涙を流してりせを抱きすくめる奈々。今までどこでどうしていたのかと訊ねたが、返ってきたのは触れたら壊れてしまいそうなほど弱々しい微笑みだけだった。
 りせは声を失っていた。
 奈々は彼女が何かとてつもない事態に巻き込まれたことを一瞬にして悟った。しかし本家の者がそのことを易々と教えてくれるはずがない。長い目で見なければならない。それでも真実はわからないかもしれない。それでも、りせのことを一任された以上は文句のつけられぬほど完璧にその任を全うするしかない。りせのことはもう誰にも渡すものかと奈々は固く決意した。
 りせが就学してからの数年間、奈々はとにかく必死だった。
 奈々は理系学部に入学後しばらくして教員免許取得へ舵を切った。必修と教職で朝から夜まで埋まるコマ。また、当時あれほどに活発だったりせの体力は見る影もなくなり、頻繁に体調を崩した。ただでさえ体調が不安定なのに、学校から帰ると祖父母に何時間も拘束されているらしかった。ひとりで立ち上がれないほどに疲弊したりせを同じく疲れ切った体で風呂に入れる。そして一緒の布団で泥のように眠った。
 りせの身に起きたことの調査も日々の忙しい合間を縫って続けていた。彼女の世話を任されてすぐに気づいたのはその下腹部と喉についた痛々しい傷跡だ。それはどう見ても外科的な処理が施されたことを示していた。思わず奈々がそこに触れると、りせは力なく笑った。悔しさに涙が零れた。
 さらに数年が経ち、奈々は無事に教員免許を取得して中学教師となっていた。就職先はりせが通うことになっている七森中だった。元々できるだけりせのそばにいようと教職を志したのだからその採用にかける熱意は凄まじかった。
 りせが成長するにつれ、次第にわかってきたことがあった。
 それはりせの発育が異常に遅いということだ。小学校の高学年となって周りの女子の身長がぐんぐん伸びはじめる頃にそれは顕著となった。成長曲線を描くと異常はよりはっきりと見て取れた。二次性徴時に表れる特徴的な傾斜が出てこない。発育の悪さ、下腹部の手術痕、崩しやすい体調。それらを統括して奈々は結論付けた。りせは少なくとも卵巣を不全にするような処理をなされたのではないか。言わば「去勢された」のではないか。そう考えると様々なことが納得できた。突然の両親の死。松本家の背負う役目。そして連日おこなわれる過酷な訓練――これらはすべて、女であるりせを神社の跡取りとして育て、例の箱の管理をさせようとしているのではないだろうか。奈々はそんなあまりに非道で醜悪な推測に吐き気を催した。しかしあの祖父母ならやりかねないとも思った。彼らは妄念に取り憑かれている……まるで箱の呪いを受けているかのようだ。奈々は改めてその在り様に空恐ろしいものを感じた。しかしそれも当然のことなのかもしれない。なぜなら松本家は先祖代々箱に関わっているのだから。
 おおよそ尤もらしい推測が据えられたことで、次の奈々の行動方針はそれに対する対処へと移行した。まず考えたのはふたりでどこか松本家の手の届かないところに逃げるということだった。しかしすぐにそれは得策ではないと思い直した。狂気の集団である松本家の手から逃れる労力は別のところに割くべきではないか。そもそも生活それ自体に困っているわけではない。話によれば実際に箱と対峙するのも予定では十年以上先のことらしい。いよいよの場面になったらまた考えればよいことだろうと、その考えは保留にして、まずは対症療法の模索を始めることとした。
 本来ならきちんとした医療機関にかかり、真っ当な治療を受けるべきなのだろうが、少し調べるとそのような治療は要するに生殖機能をなんとか取り戻そうという試みに近いものであるらしい。となれば本家が安易に診療を許すはずがない。日々繰り返される行動の制限を伴った訓練行為はそういうことをさせないためを兼ねているのかもしれなかった。
 そうとなれば選択肢はそう多くない。奈々は医療機関への診療に頼らない治療法を模索した。しかし素人仕事で安易に卵胞ホルモンを入手し、摂取させてしまうことは非常に危険なことである。なぜなら、りせの普段している訓練というものが、あの箱の呪いの対処を伴うからだ。訓練は当然、りせにその影響がないことが前提にあっておこなわれるのだろう。下手に治療らしきものを施してしまうと何が起こるかわかったものではない。そもそも呪いに影響が出る厳密なラインというものがあるのかどうかもわからない。当てずっぽうな対処でりせの身を危険に晒すことは是が非にでも避けねばならなかった。
 もしかしたらこれまでにもこのようなことがあって、それに対する対処が記された書物が、本家には残されているのかもしれなかった。しかし奈々にはその存在すらも憶測の域を出ない。完全に思いつきで一か八かの人体実験がなされたのかもしれない。奈々はそこまで考え、再び吐き気を覚えた。
 教師は忙しい職であったが、学生の頃と比べれば幾分かマシだった。りせの体調が安定してきたことに加え、彼女の身に起こったことの推測といった雲を手でつかむかのようなこともひと段落ついたからだ。その分の時間や労力は学術書等を読むことに費やした。理科の教師であることをいいことに、しばしば学校の備品を拝借することもあった。

 

 りせは幼少期のことをよく覚えていなかった。
 物心ついたときには両親はいなかったし、奈々はずっとそばにいてくれた。体は弱かったが、毎日厳しい祖父母に家業の訓練をさせられた。例えばそれは厖大な祝詞の暗唱であったり、薄気味悪い呪具の扱いの作法を習うことだったり、近い将来必要になるらしい呪いの箱に関する知識を叩きこまれることだったりした。とりわけ苦痛だったのが自らを傷つけて得られる血液を使った呪法の練習だった。繰り返しおこなわれたそれは、尻込みをすれば折檻を受け、真っ当におこなえば当然痛みを伴い、祖父母ですら週に何度もさせることは控えたほどに精神を消耗するものだった。それがあった日は、いつも以上に奈々に甘えて精神のバランスを取った。彼女とて疲弊しているのはりせにもわかっていた。しかし、奈々はどこまでもりせのわがままを受け入れてくれた。加えて物心ついたときからの習慣は中々変えられるものでもなかった。
 ある日の就寝前に、りせは布団の中で深刻な顔をした奈々に大切な話があると言われ、それを打ち明けられた。それは、りせはもう子をなすことができないだろうという内容だった。
 しかし当のりせはそんなことは既になんとなくであったが理解していた。箱の呪いについて講義を受け、それを自分が扱うというのだから当然の話だった。しかし他者からその話を聞いたことで少し自分の中で腑に落ちた部分もあり、気づけば奈々の胸に顔を埋めて泣いていた。そしてやはり奈々はそんなりせを優しく包み込んでくれていた。りせは奈々さえいてくれるならそんなことは些末なことだと思った――

 

 りせは少しの間、過去のことを思い出していた。悲劇に佇む櫻子の姿が過去の自分と重なったのかもしれない。しかし彼女もりせも生きている。そして悲痛を抱えて生き続けなければならない。りせは櫻子の行く末に自身のそれを重ねて、少しばかり嬉しいような感情が芽生えるのを感じた。自分でもどうかと思った。やはりまともな人間ではないから仕方がないのだろうかと軽口を叩きたい気分だった。
 りせは櫻子の耳元に口を寄せると、櫻子にしか聞こえない肉声でこう言った。

 

『よかったね。壊れてて』

 

 そして躊躇うことなくその場を後にした。
 残された櫻子は空っぽな心で、ぽつりと呟いた。
「会長の声、初めて聴いた」

 

コトリバコ×ゆるゆり 第九話

 

◆九月九日(月)- なにがおそうひ

 

 週が明け、日常はまた動き出す。向日葵の死に沈む友人らも、櫻子を除いて休むことなく登校していた。
 それぞれの胸にはそれぞれの想いを抱いての、どちらかと言えば称賛されるべき結果であった。しかし奇しくもそれが仇となることは皆知る由もなかった。

 

 昼休み、教室という日常に居ることに疲れた綾乃は千歳を誘って生徒会室に来ていた。
 朝から自分の殻に閉じこもるかのように本を読みふける千歳の姿を見てどうにか手を差し伸べられないかと、少なくとも表層ではそう考えての行動だった。
「ねえ千歳……何の本を読んでいるの?」
「大丈夫。心配せんでええよ綾乃ちゃん。大丈夫だから」
「…………」
 会話にならない。そんな様子の千歳を目の前にして綾乃は少し自分を取り戻した。それと同時にいつもの思慮深さも徐々に戻ってきていた。
 綾乃は静かに千歳を観察した。途端に先程まで感じていた印象が、がらりと変貌する。
――千歳、なんだかすごく……すごく変……。
 気づいた瞬間、綾乃は戦慄を覚えた。
 これは自分の殻に閉じこもっている人の目ではない。そう直感的に理解した。
――何かもっとこう、何かに憑り付かれている、みたいな。
 脇目も振らず、まさに一心不乱に資料をあたる千歳。今の綾乃にはもう、さっきまでのように話しかけることはできそうになかった。
 しばらく黙って千歳を観察し続けていると、やがて千歳は小さく溜息を吐き、本を閉じて綾乃の方へと顔を向けた。
 少し肩を跳ねさせた綾乃に千歳が訊ねる。
「綾乃ちゃんは……古谷さんがどうやって死んだか、聞いてへん?」
「へっ? え、ごめんなさい。聞いてないわ」
「そか……」
 綾乃は想像だにしない質問に動揺して声を上擦らせた。
 その話題は半分無意識にタブーとしていた綾乃だったが、千歳にはまったくそんな気はないようだ。綾乃は今度こそ彼女の異常性をはっきりと認識した。
 綾乃は一瞬躊躇ったが、思い切って話を切り出した。
「あの、千歳? 言いにくいんだけど、ちょっと変よ、今のあなた」
 言い方が選べなかった。なんでそんな言い方ができたのか綾乃自身もわからなかった。だがそんな言われようにも千歳の表情は涼しいもので、しきりに大丈夫だと繰り返した。
 話が噛み合わないことにはどうしようもないと感じた綾乃は、辛抱強く話を続ける。
「随分と熱心に本読んでるけど、何か調べもの? なら私も手伝うわよ」
 綾乃がそう言いつつ、傍らに置かれた本に手を伸ばしかけたその時だった。
「あかん!」
 千歳は素早くその手を払いのけた。
 さっと顔をこわばらせた綾乃を見て、ようやく自身も顔を歪ませた。千歳が向日葵の死を知って以来、久しぶりに人間らしい表情をした瞬間だった。
 少し間をおいてから、千歳は静かに話した。
「綾乃ちゃん……大丈夫。なんも心配せんでええよ。うちが綾乃ちゃんのことちゃんと……」
 千歳の言葉は終わり際が弱々しく、よく聞こえなかったが、言わんとしているニュアンスを綾乃はしっかりと理解した。ようやく感情らしい感情が示されたこともあってか、たった今受けたショックは霧消したようだった。
 千歳の言動は考えるまでもなく異常だ。正常な精神状態であるとはとても思えない。だが綾乃はその想いの純粋さを感じ、自然とそれだけを見ていた。

 

 沈黙が続く。綾乃はもう千歳に対する違和感を覚えていなかった。嫋やかな笑みを湛えて俯く千歳を見ている。
 しばらくして千歳が口を開いた。
「……歳納さんはどないやろ」
「そうね……」
 綾乃は不思議といつものように気持ちを乱すことなく京子のことを考えていた。ひとりで沈んでいる間にも幾度となく同じようなことを考えていたが、今は穏やかな心持ちなのが良いのか、迷いなく答えは出た。
 ごらく部の面々も少なからぬショックを受けていることは明白だった。同じ傷を負った者同士で他愛もないような話をし、生きた気持ちを通わせるべきではないのか。ちょうど綾乃と千歳がそうしたように。
「放課後に、ごらく部のところへ行ってみましょうか。みんな集まっているかわからないけど……」
「せやね……あの箱でまた遊びながら、お話でもせえへん?」
 古谷さんも心残りかもしれないやんと千歳は小さく付け加え、綾乃の指先に触れた。綾乃はわずかに何か引っかかる感じを受けたが、それは千歳の指先から伝わる温かさに触れすぐに揮発した。綾乃の胸を安堵感が満たし、そのままそこへ埋もれていたくなる。
 綾乃は目を伏せ、頭を千歳に預けた。
 その背中に軽く腕を回した千歳の瞳は再びぎらぎらとした光を湛えていた。

 

 放課後、かろうじてといった風に部室にいつものメンバーが顔を出していたが、決して明るいとは言えない雰囲気に包まれていた。
 特に話が弾むでもなく、何か行動を起こすでもなく、ただそこに居続けている状態だった。口を開けば何かが耐えきれずに噴出しそうな、それでいてひとりで帰宅して時間を持て余すことは避けたい。そんな心理状態だろうか。
 そんな雰囲気に割入るように、表から砂利を踏む音が聞こえてきた。いつも騒がしく過ごしていることの多いごらく部の面々は皆一様に入り口に注目した。「こんにちは」と控えめな声が障子越しに聞こえ、しばらく経ってから細く障子が引かれる。
「あの……おじゃまします」
 おずおずと綾乃が顔を出した。後ろには千歳もついてきている。さすがに普段のようには入ってこられなかったようだ。
「いらっしゃい……」
 結衣が無表情で言葉少なではあったが、自ら移動してふたりの席を空けてくれた。
席に着いた綾乃はメンバーの様子をさりげなく観察した。ちなつは俯き加減で顔色が悪く、京子からもいつもの生気が感じられない。結衣はいつにも増して硬い雰囲気だった。
 隣では、千歳が落ち着きなく辺りを見回していたが、少しして目的物を見つけたのか、一同に対して切り出した。
「あのな……そこに置いてある、箱。これって古谷さんが持ってきたもんやんな?」
 登場早々に彼女の名を出した千歳にみんなが注目した。趣旨のわかっていた綾乃は隣の千歳を柔らかく見つめる。
 質問を投げかけられた彼女らは答えあぐねていたが、千歳はその沈黙を肯定と受け取り、話を進めた。
「そしたらこれ、形見みたいなもんやん? ……これをみんなで開けたら、古谷さんも喜んでくれるんちゃうかな、思て」
 結衣と京子は顔を見合わせた。さっき少しだけ顔を上げたちなつはまた俯いてしまって、鼻を鳴らして泣き始めた。
 やがて結衣が静かに言った。
「そう……だね。古谷さんも箱、開けたかった……だろうな」
 みんな向日葵の話題に触れることはつらいことだったが、ただ悲しんでいるのも不健全だという意識はあった。向日葵のために何かしてあげられることがあるならしたいという気持ちもあった。それが、弔いになるかもしれないのならそうしたい。そんな雰囲気が広がり始めた。
 千歳は一度辺りを見回すと、唇を固く結び、すっと立ち上がると、床の間に置いてあった箱を皆が囲う卓の上に持ってきた。
「…………」
 中央に置かれた箱をしばらく全員が見つめる。特に千歳の表情には何か鬼気迫るものがあった。
 千歳はもちろん、この箱がなんであるかを特定する手がかりがないか必死に探していた。
 じっと目を凝らして箱を見つめる。
 寄木細工、何かの貼りついた跡、下方についた黒い染み、幾度かずらされたパーツの隙間、虚ろな隙間――
「……千歳、こんなときに何考えてるんだよー……」
 京子が呆れたように指摘する。綾乃が千歳の方へ顔を向けると箱に両手を添えた千歳が俯き加減でそれを睨みつけながら、鼻血を流していた。一瞬またいつもの発作かと京子のように呆れた気持ちになった綾乃だったが、どうも様子がおかしい。鼻からの出血が徐々に量を増している。今まででこんなに出血したことがあっただろうか。眼鏡を外した時は確か、しかし今は普通に眼鏡をかけている。
――あれ、どうして? どうしたの、血が、あれ?
 見る間にテーブルの上に血溜まりができた。さすがに異常だと感じたのか京子と結衣が目を見開いている。
「千歳? 千歳?!」
 綾乃は千歳の肩をがくがくと揺さぶったが反応はなく、体が硬直し、しばらくだらだらと鼻血を流し続ける。
「いやぁ! 千歳っ!」
 パニックに陥った綾乃が一際大きく叫んだ次の瞬間だった。
「う、ぐぁぁああああああ!!」
 千歳が呻き声を上げ、畳に倒れ込んだ。そのまま腹部を抑えてのた打ち回る。鼻からはなおも出血が止まらず今や吹き出すかのような勢いとなっているせいで、壊れたスプリンクラーのような有様だ。
 予想だにしなかった劇的な事態に呆気に取られる面々。
 先程まで千歳に縋っていた綾乃でさえしばらく固まってしまっていた。しかし思い出したかのように千歳をかき抱く。
「ダメッ! 死んじゃダメ千歳! 千歳!!」
 救急車を呼ぶとかそういう次元ではない出血量だった。思考を圧倒する赤黒い色彩。むせ返るような鉄臭さ。呆然と見守るだけだった京子はやがて蹲ってすすり泣き始めた。
 結衣は未だ固まっていた。何も考えられなかった。何が起きているのか、これは現実なのか、なぜいつものように血が止まらないのか。結衣には何も判断ができなかった。
 綾乃は本能的に理解した。千歳はもう助からない。そして喚くのはやめた。血に塗れてこわばった彼女の手を握った。一縷の望みをかけて心の中で彼女の名前を呼び続けた。しかしその願いも空しく、やがて彼女の体は細かく痙攣し、最期に口からもどす黒い血を吐き出して、静寂が訪れた。
 綾乃はたった今自分の隣で何が起こったのかを理解したくなかった。その反面、弱った心には入りきらない感情の奔流が冷水となって浴びせられたかのように彼女の頭は澄みきっていた。
 綾乃の脳裏を走馬灯のように様々な場面がよぎる。
 みんなで楽しく放課後を過ごした最近の部室。根気強く試行錯誤するあかり。様子がおかしい今日の千歳。箱をしきりに気にする千歳。箱を凝視する千歳。箱。
「……お前か。お前がぁ!!」
 千歳らを死に追いやった原因を直感的に見抜いた綾乃は、怒りに支配され、それを箱へと向けた。獣のような雄叫びをあげながら親友の仇を掲げ、怒りのままに壁へと叩きつける。
 箱は鈍い音を立てて割れ、下に落ちた。
 壊れた箇所から黒い塊のようなものがぼろりと零れ落ちる。
 綾乃はそれをしかと目に焼き付けるかのように睨みつけた。
「おい、綾乃……?」
 急に立ち上がり叫んだかと思うと大事な形見であるはずの箱を壁に叩きつけて壊したきり、動きを止めてしまった綾乃に京子が恐る恐る話しかけた。しかし返事の代わりに聞こえてきたのはくぐもった水音をまとった呻き声だった。
「ご……お、ご……」
 そして綾乃はそのまま崩れ落ちた。見開かれた目、固く噛みしめられた口許、形の良い鼻、耳、苦悶の表情を浮かべる顔全体からおびただしい量の血が溢れ出す。体中の穴という穴から血は噴き出し、あまりの量にそれはすぐに収まった。
 あっという間に血の湖ができていた。千歳と綾乃が折り重なってそこで溺れているかのようだった。
 千歳に続いて綾乃が事切れ、その一部始終をただ見ていることしかできなかった京子の心は、危ういところで踏みとどまっていた。ふと隣を見ればちなつが俯き震えている。無理もないことだろう。いつも冷静な結衣ならともかく、ちなつは怖がりなのだ。普段お気楽に振る舞う京子だっておそらく周りに他人がいなければ半狂乱になってその場から逃げだしているに違いなかった。
「ちなつちゃん、大丈夫?」
 京子は縮こまるちなつの肩に手をかけ、彼女の顔を覗き込んだ。ちなつはこの世のものとは思えない苦悶の表情を浮かべていた。
 あ、と言う間もなく、ちなつの口からどす黒い血が吐かれ、京子の頬を濡らした。まるで限界まで張られてぎりぎり耐えていた一本の糸が、手に触れると同時に切れてしまったかのようだった。ちなつはそのままもんどりうって倒れ、千歳のように血を撒き散らしながら一頻り苦しんだ後、焦点の合わない瞳で京子の方を見つめた。
「京子……先輩……」
 京子はその虚ろな死の色を湛えた瞳を無色の表情で見つめ返した。ちなつが力なく震える手を伸ばす。京子はそれを同じく震える手でつかまえた。つかまえた瞬間、ちなつは満足げに瞼を伏せ、息を引き取った。
 京子は頬についた血からちなつの体温が失われていくのを感じた。しばらくして、今度こそ半狂乱に陥ってちなつに縋り付き、その名を叫び続けた。

 

 結衣はその色が空間を覆う様を見ていた。
 先程まで話していた友人に今何が起こったのか、結衣の頭は理解を拒絶していた。
 理解を拒絶していたら新たにひとり、またひとりと友人が壊れていった。そうしたら、次は当然――
「……京子、逃げるぞ」
「だってぇ……ちなつちゃん、ちなつちゃんが……」
「いいから来い!」
 結衣の頭は依然ものを上手く考えることができなかったが、体は勝手に動いていた。結衣は子供のように駄々をこねる京子の手をつかむと、強引にちなつだった物から引き離し、最短距離で部室から脱出した。
 ちなつに縋っていたせいで京子の制服は血だらけだった。加えて、幼少期に戻ってしまったかのように弱々しく泣きじゃくっている。しかし、今の結衣にはそんなことを気にする余裕はない。
 結衣は自分の行動をどこか遠くから見つめているかのように感じていた。自分が何を考えようと、あのふたりの行動を変えることなどできないと思った。彼女の意識はふたりの逃避行の成り行きをただただ見守る観客となっていた。
 部室として利用している茶室はそもそも使われていないはずであることに加え、周りが多少木立に覆われていたのが好都合だと思った。まだ校内には部活中の生徒がかなりの数残っている。そんな状況において、ふたりは誰にも遭遇せずに学校から出ることに成功した。しかしこれから往来を行くのに、この状態の少女が人の目に触れたら即警察に通報されることは間違いない。冷静に考えられていれば大人を頼って保護してもらうのが最良であると思い至ったはずだったが、とにかくあの場から少しでも遠くへと、当てもなく歩き続けた。京子は京子でただ泣き続けているばかりだった。
 気がついたときにはふたりは結衣が独り暮らしをしている部屋の前に立っていた。結衣は自然にポケットに手を入れ、部屋の鍵を取り出し、鍵を開けて中へと入った。玄関の外には日常が戻り、非日常は速やかに隠蔽された。

 

 結衣と京子が去った後、入れ違いで茶室に近づく者がいた。
「ふう。ここがあの、歳納なんたら率いる集まりの……」
 息を切らしつつ現れたのは千鶴だった。
 放課後になり、千歳のことがどうしても心配になった千鶴は居ても立ってもいられずに姉を捜索し、話を聞きつけてようやくこの場所に来ていた。つい今しがた確認をした下駄箱には外履きがなかったので、ここに居なければもう帰ったということなのだろう。
 玄関に入ると三和土に千歳の靴を見つけた。
「良かった。他人と一緒にいたのか」
 もしかしたら、ひとりでまた何かを調べ続けているのではないかとも思っていたが、友人と一緒だというならまだ安心だろうと千鶴は胸を撫で下ろした。しかし、そんな気持ちも束の間、強烈な嫌な予感が脳裏を掠めた。
――なんだ、この匂いは。
 玄関にはこれまでの人生で嗅いだことのないような匂いが立ち込めていた。室内への障子が半分程開いていて、それはそこから漂ってくるようだった。ふと足元を見ると黒っぽい染みが点々と表へと続いていた。
 津波のように襲い来る本能的な恐怖に頭髪が逆立つようなちりちりとした感覚を感じながらも、千鶴は何かに突き動かされるように障子に手をかけ、開け放った。
「あ、あ」
 千鶴の喉からは声にならない音が漏れ、その場にゆっくりとへたり込んだ。
 ゆっくりと室内を見渡す。直感が最悪の状況を告げていた。もう急いでも仕方がないだろう、と。
 まず目に飛び込んできたのは全体に散らばる色だったが、千鶴の目は無意識に自身と同じ特徴的な髪の色を探していた。はてさて、その右奥にある濃い赤を含んだ色素に乏しい毛髪のようなものに覆われた塊は頭か何かではないのか。飛び散ったように広がる粘性の高そうな液体に共に浸かっているのは千鶴もよく知る存在ではないのか。そして卓を挟んで反対側に同じような有様で存在するあの豊かな量の明るい桃色の房は、おそらく……。
 圧倒的な色味に視覚が疲れてふと目を逸らしたところ、畳の上に冊子のようなものが開かれているのが目に入った。
 雨ざらしになったかのように紙が波打っている。開かれたそのページには何かが描かれているようだが、滲んでしまって判別不能になっていた。しかしその色使いはこの惨状を写し取ったかのようで、千鶴は言い知れぬ禍々しさを感じた。
 そこにいるのは姉なのだろうという確信があった。しかし千鶴はそれを上回る身の危険を感じた。今すぐにここから立ち去らねばならないと、笑う膝に苦労しながらなんとか立ち上がり、踵を返そうとしたときだった。
 左方の壁際にあったそれが視界に入った。
「あぁ……」
 千鶴の本能はそれがこの惨状の原因であるという判断を下していた。そして彼女はそれから視線を外すことができず、そのまま――
「おい! どうした?! そこにあるのか!」
 千鶴が部屋に転がるそれらと同じものに成り下がる運命を受け入れかけたとき、背後から怒号が発せられた。
「りせ! 悪いが頼む。急いでくれ!」
 茶室の入り口には西垣教諭が立っている。教諭の呼びかけでりせが小走りで千鶴に近づいた。いつもは表情らしい表情のないりせだが今の表情からは緊迫感が窺える。
 千鶴の傍らにしゃがみ込んだりせはまず、彼女の瞼を伏せ、視界を遮った。そしてどこからか剃刀のような刃物を取り出したかと思うと躊躇いなく自らの指先に滑らせる。一瞬間をおき、血が玉のように流れだしたのを確認すると即座に千鶴の口内深くへと指を突き入れた。それは普通なら吐き気を催すような勢いだったが、今の彼女はそれどころではないようで特に抵抗をすることもなく、力なく横たわるばかりで、時折わずかに痙攣をしている。
 りせは指をそのままに目を閉じ、音が外には漏れない独特の発声で呪いの詞を奏じた。辺りを不思議な静寂が包み込む。
 やがて奏上が済んだのか、りせは千鶴の口内から指を抜き、口と鼻を摘まんで滴った血液を呑み込ませた。その直後、千鶴の体は強ばり、飲まされた血液を吐き戻した。そしてそのまま静かに眠ってしまった。ここまできて、りせは細く長く息を吐いた。
少し離れたところから見守っていた西垣教諭も終わりを確かめようと、りせに話しかけた。
「もう、大丈夫か?」
「……」
「そうか。それで、あれはそこにあるんだな?」
「……」
 いつものようにりせの声は音を伴わないが、教諭にはわかるようだった。ふたりの奇妙な会話は続く。
「じゃあ池田千鶴は私が見ておくから、りせはそちらを処理してくれ。終わり次第、消防と警察に連絡だな……いいか?」
「……」
 りせは消防と警察のくだりのところで少し眉をひそめたが、仕方がないとでも答えたのだろう。教諭は神妙に頷くと、千鶴を回復体位にしておいて、その口許をハンカチで拭ったりと身なりを整え始めた。りせは部屋の隅に落ちているそれに血塗れの手を被せ、しばらくまた目を閉じた後、白い薄絹のようなものでそれを覆い隠すと、自分の手と一緒に括った。
「……」
「お、終わったか……わかってる。近づかないよ今は」
 お疲れ様と西垣教諭は言葉だけでりせを労った。そう言われてからりせはようやく少しだけ笑みを見せた。
 そして教諭が携帯電話で連絡を始め、りせは手に白い布を巻き付けたまま、茶室を後にした。

 

 部屋に敷かれた布団の上に、結衣と京子は手を繋いだままに横たわっていた。
 部屋に辿り着いた瞬間結衣が血を吐いた。それではっきりとわかってしまった。遠方に離れるだけではもうあの凄惨な死からは逃れられないようだ。
 部屋に入ってからしばらくは、そんなこともあって京子がまた激しく泣き始めてしまったのだが、今は落ち着いていた。
 しかしその手だけは離そうとしなかった。結衣も離す気はなかった。
「覚えてるか? 前、ここに住むようになって初めて京子が泊ったときのこと」
「うん。私もそれを思い出してた」
 しばらく話して少し沈黙の時間が続く。気が置けない間柄特有の不快感を伴わないそれが、互いにとても心地好かった。
 心に収まりきらない現実をすべて手放した境地だった。
「いろいろと昔のこと考えちゃった」
「……私も」
「なんかあれだけどさ、今までほんとごめんね? 迷惑しかかけてないな、って」
「いや……」
 普段からそんなことは言わずとも、京子が際限なく勝手気ままに行動しているのではないことぐらいわかっていた。
 先程思い返したあの日もそうだったが、京子はさりげなくそういった気遣いができていて、超えてはいけないラインを弁えた行動ができる賢しい奴だということは結衣が一番理解していた。それでも口に出さなきゃいけない、そういうタイミングが来たのだと、そこまで考えて結衣は口ごもった。
 返事の代わりに京子の手を少し強く握った。
「なんだよもう。結衣は本当に寂しがりの子だな」
「……そうだよ。悪いか」
 結衣は変な意地を張るのをやめた。
 短期間で今まで守ってきた平穏な世界の大半を失った結衣は、もういつもの冷静な結衣ではない。
「なあ京子…………京子?!」
 結衣は握った手を何度か揺する。
「ああ……何? どうしたの、結衣」
「…………」
 返事に一瞬間が開いただけで、総毛立つほどに肝を冷やした。自身では覚悟はできている気でいたがどうも甘かったらしい。京子は結衣のそんな気も知らないような顔をして笑う。
「結衣も寒いのか? しょうがないな」
 そういうと、京子は結衣に抱きつくようにして、下から顔を覗き込んだ。
「なんだ、泣いてるの……?」
 結衣は静かに嗚咽を漏らし始めた。京子が零れる雫を指で掬う。その指先の冷たさに、結衣の目からは止めどなく涙が溢れた。そしてとうとう本音が口をついて出た。
「死にたくないよぉ……」
「うん。私もまだまだみんなと、遊び足りなかったんだけど」
 京子は一度言葉を切ると、少し咳き込んでから再び話しだそうとして気づいた。
「あれ……おかしいな。さっきは……結衣の方が先だと思ってたのに」
「京子!! そんな!」
 咳を押さえた手には、死の色がこびり付いていた。
「ごめん。いろいろ全部、言っておきたいことが」
「いいから! 大丈夫、わかってるから!!」
「言っておきたいことが、っ! いくらでもあったはずなんだけどなあ」
 見る見るうちに京子の顔色が悪くなり、瞳も焦点の合わない状態になった。部室での彼女は別人であったかのように激しく狼狽える結衣。
「嘘……冗談だろ? 待って京子! 私の方こそ、まだ何も」
「ダメだ……ごめん。やっぱりこんなことしか言えないんだ。こういう時って」
「待って!! 喋るな! 私が先に言いたいことが、そのっ」
「漫画とかでも……やっぱり、結衣、ほんと」
 結衣はやはり土壇場で何も考えられなかった。症状の変化があまりに急で、一緒に居た時間があまりに長くて、そして今となっては京子との平穏な日常があまりに眩しくかけがえのないものであると気づいてしまって――
「結衣大好きだよ。今まで……ありがとね」
「京子、そんなの! そんなの……!!」
 そんなのずるいだろ。なんで最期まで全部持って逝っちゃうんだ――叫びは京子に届かず、虚空に溶けた。

コトリバコ×ゆるゆり 第八話

 

◆九月八日(日)- 生前の日の思い出

 

 向日葵が死んで二日が経ち、各自少しずつ折り合いをつけ始めていた。世界は何事もなかったかのように回っている。正午を過ぎ、急に空が暗くなってきた。予報では午後から雨が降るようだ。
 昨日から綾乃は自室にこもっていた。何もする気が起きない。必要最低限の行動しか取る気がしなかった。
 やがて湿った風が吹き始め、薄ら寒い空気が夏らしい雰囲気を押し出した。雷鳴が遠く聞こえる。カーテンの閉め切られた室内は外界から隔絶されていた。より一層暗くなったが綾乃は構わずベッドの上に蹲る。
 彼女はただただぼうっとしているのではなかった。つい数日前の平穏な日々に想いを馳せていた。

 

 向日葵が亡くなった日の数日前、生徒会室に彼女と櫻子を呼び出していたことを思い出した。わざわざ場所を生徒会室にするなど、生徒会関連の用事であると誤解させるような小賢しい行為だった。
 実際はいつもの京子とお近づきになろうというような思惑があったのだが、結局はあの箱の件を櫻子に提案され、それは別ルートで達せられた。
 浅薄な目的のために向日葵や櫻子を煩わせてしまった。そんな自分の浮かれた行動が、改めて考えると恥ずべきものに思え、綾乃は後悔していた。
「歳納京子は……きっと平気。だって強いもの」
 口をついて出た友人の名前。疲弊した心には彼女の天真爛漫な振る舞いが鮮烈に思い起こされる。
「……あの人は、いつも眩しい」
 綾乃は自身の少し内向的な性格をよく把握していた。少しずつ改善していこうともしていた。副会長にも立候補した。そして京子は綾乃の理想とする長所をたくさん持っていた。
 明るくて社交的。前向きで行動力がある。成績が優秀だが気取らない。
 隣の芝生は青いもので、持ち得ぬ長所は短所を覆い隠す。しかしその長所は紛れもない真実で、綾乃はそのことを純粋に捉えていた。
「……千歳。千歳は大丈夫かしら」
 次に思い浮かんだのは一番の親友の名前だった。
 綾乃は彼女の柔らかく包み込むような雰囲気を思い出し、安堵感を覚えた。今は京子のような鮮烈な刺激を伴うイメージよりもこちらの方が得難いもののように感じた。それと同時にその雰囲気には儚さがつきまとう。向日葵は彼女にとっても大切な後輩だったはずだ。綾乃が受けているショックと同程度のものが彼女を襲っていることは想像に難くなかった。
 普段だって何もなくとも連絡は取る。自分だったら連絡があれば嬉しい。など幾重にも足場を踏み固めながら、綾乃はようやく他者との繋がりを欲した。
 震える手でゆっくりと携帯を操作する。
 永遠かと思うほど長い五回の呼び出し音で電話は繋がった。
「もしもし……千歳?」
「あの……杉浦さん、ですよね」
 耳元から聞こえたのは綾乃が待ち構えていたあの柔らかい声とは程遠い、別人のものだった。混乱した綾乃は唐突に涙をこぼした。少し遅れて嗚咽も漏れる。
「う、うぅ……っ! 千歳……千歳ぇ……」
「あ! えーと、私です! 妹の千鶴です!」
 電話口からでもただならぬ気配を感じた千鶴は咄嗟にきちんと自己紹介を挟んだが、綾乃が落ち着くまでにはしばらくかかった。
「姉さんはちょっと、朝から出かけてしまっていて……携帯、家に置きっぱなしなんです」
「……そうなの。ごめんなさい、みっともないところを」
「いえ、しょうがないですよ……あんな……」
 千鶴は咄嗟に言いかけた言葉を飲み込んだ。さっきのように泣かれたのでは堪らない。
「そう、姉さんも、なんだか少し様子がおかしくて……やっぱり、私にはあんまり心配かけたくないからか、なんともないって言うんですけど」
 ついつい「姉さん『も』」と本音が出てしまっていたが、綾乃は逆に気持ちを持ち直した。
 綾乃の勝手な想定どおり、千歳も少なからぬ傷を負っていて、誰かの助けを必要としているのだと解釈したのだ。
「そう……まあ留守ならしかたないわよね。千歳が帰ったらいつでも連絡してきていいからって伝えてもらえる?」
「はい。伝えておきます。わざわざありがとうございました」
 なんとか危なっかしい通話が終わった。
 千鶴はひとつ大きく息を吐く。さっきは夢中だったが、あのしっかりした綾乃があれほど取り乱していたことに、かなり驚いていた。
 しかし、それはすぐに姉の心配へと変わる。では千歳はどうなのか。千鶴の胸はざわついていた。どうも昨日今日と千歳の行動が不自然に見えた。綾乃のように不安で情緒不安定になったり、鬱々と引きこもりがちになったりするのが普通ではないのか。今朝などは特に、いつになく行動的な様子が見受けられたのだ。

 

 千歳は図書館に来ていた。
 祖母からの情報があれ以上得られない以上、ほかに情報を得る手段としてまず浮かんだのはここだった。昨日は電話を終えた時点でもう夕刻だったために断念したが、今日一日使えば何かが得られるだろうと千歳は考えた。
 民俗学、地方史、宗教関連など様々な本を手に取る。
 そして閲覧スペースに山のように積んでページを繰り始めた。特に「箱」についての記述がないか、目を皿のようにして探した。
 箱、匣、筥、笥、函、筐……用途により細かく字が充てられるが、総じて箱とは蓋のついた容器のことである。
 箱は物理的・精神的隔絶を生じさせる。
 隔絶は神秘性を生む。
 習俗と箱の関係を見ると、日本では祭祀の道具を運搬する筥、西洋では聖遺物を納めるトランクというような、ただ物を納めるだけではない精神的な営みが感じられる。
 箱に関する伝承も多々ある。例えば開けると老いる玉手筥(玉匣)、開けて見てしまうと目や口から血が流れ出る八咫鏡の入った辛櫃、ギリシャ神話のアテネアテナイを入れた箱、言わずと知れたパンドラの箱、アーク、開けてはいけない箱の話が多いことは考慮に値するかもしれないが、どれも今回の話と合致するようなものとは言い難かった。
 実際に調べてみると、そもそも手がかりが少なすぎてどうにもならないことに気がつく。千歳は取り留めなく散らばる思考をどうにかまとめようと紙に要素を書き並べてみた。
 開けてはいけない箱
 体調の悪化
 呪い? 祟り?
 実際、手詰まりであった。
 向日葵が死んだりあかりの体調が悪くなったりしたのが呪いや祟りが原因であったのなら、誰かが誰かを呪おうとする意志の向きによる指向性や、何が祟っているのかによって対処が変わるだろう。何せ千歳や綾乃はもちろん、他の面々も箱に関わってしまっているのだ。遠からぬうちに被害が出だすのは想像に難くない。適切な対処をするためには結局箱の出自を知らねばならなかった。
 そういえばあの箱はどうやってごらく部に持ち込まれたのだろうかと千歳は思い返した。最初に櫻子に話を聞いた限りでは彼女の箱だという印象を受けたが、櫻子には被害が出ていないのでその記憶は間違っているかもしれない。向日葵だとしたらもう正確な出自はわからないかもしれない。そうかと言って出自について何か知らないかと関係者に訊いて回るのも面倒ではあったので、それは最終手段として脇によけた。
 また、どのような効果をもたらすのかということも重要な手掛かりになり得た。しかし向日葵の死の状況を詳しく知らない千歳には憶測でしか調べられなかった。

 

 結局閉館時間いっぱいまで資料を漁ったが目ぼしいものは得られずじまいだった。千歳は仕方なく借りられるだけの本を借りて帰宅した。

 

「お帰り姉さん……どこに行ってたの?」
 帰宅すると千鶴が玄関口まで出てきた。成果が得られなかったことで疲労を感じていた千歳は、少し鬱陶しく思った。これからさらに借りてきた資料の読み込みが待っている。
「うん。ちょっと、調べもので……」
 動きを止めずに答える。話しかけないでほしい雰囲気を振りまいた。千鶴は当然それを感じていたが、めげずに話を続けた。姉に対する心配さが遠慮に勝った。
「昼にね、杉浦さんから電話があった。かけ直した方がいいと思う」
「そか。ありがとな千鶴。じゃあうちちょっと、調べごとがあんねん」
 そう返答だけして、千歳はそそくさと重そうな鞄を抱え、部屋にこもってしまった。そんな姉の様子に千鶴は昼間に感じた違和感が確信へと変わっていたが、だからと言って何かをしてあげられるとも思っていなかった。
「そう、あのときもそうだった。結局、私は……」
 諦観の色濃く、自嘲気味に微笑んだ千鶴は、消え入りそうな声でそう呟いた。

コトリバコ×ゆるゆり 第七話

 

◆九月七日(土)- 箱を調べる手がかり

 

 向日葵が死んで一晩が経った。
 あのとき生徒会室にいた面々はそれぞれにショックを受けていたが、翌日が平日でなかったことも幸いし、いろいろなことが表面化してはいなかった。
 下手にいつもどおりの学校生活を送ろうとすれば嫌でもそれに目を向けずにはいられないし、かといって学校を休むということは事態の異常性をよりはっきりと意識させてしまうことにほかならない。
 彼女たちの家族は帰宅時の様子から何やら異変を察していたが、翌日になって向日葵と特に関係の深かった友人の保護者にのみ連絡があり、初めて事態を把握することとなった。それを受けて結衣は自宅に連れ戻された。他の面々も自宅で静かに過ごすことを余儀なくされた。

 

 千歳も例に漏れずリビングに静かに過ごしていた。その表情は暗く沈むでもなく、しかしもちろん楽しげでもない。
 彼女はあれからずっと考え続けていた。
「あ、姉さん……」
 今朝になり事情の一端を知ることになった妹の千鶴が心配そうに姉にすり寄った。千歳は表情を動かさない。
「古谷さんのことは残念だったけど、あまり気に病まないで」
 そう、向日葵が死んだ。それは確かに非日常的なできごとだが一体それのどこに引っかかるような余地があるのか。ただの勘違いではないのか。やはり精神的に参っているせいなのではないか。などと千歳は考えたがまるで靄に覆われたかのように思考が晴れない。ただ、その靄の中心に何かおぞましいものが鎮座しているという予感だけがこびりついていた。
「あの、しつこいかもしれないけど……姉さん、だって、すごく体調悪そう」
「そう見える? でも大丈夫。心配せんでええよ」
 千鶴に心配をかけているのは重々承知だったが、千歳自身、そこまで深刻に落ち込んでいるわけではなかった。むしろ、そのことが少々薄情であるかもしれないなどと、まるで他人事かのようにひどく冷めた意識で自身を見つめていた。ただただ深く考えつめていた。対して千鶴は心配そうに姉を見つめ続ける。そのわずかに怯えを孕んだ視線に、とうとう千歳は観念し、憂いごとを吐露した。
「古谷さんが……亡くなったことなんやけどな、ちょっと、何かおかしいねん」
「何かって……どういうこと?」
「うーん……なんやろ。こう、嫌な予感がして……」
 千歳自身、考えのまとまっていないことをどう話したら良いものかと歯切れが悪くなる。やっぱり話してもどうしようもないかと思いかけたときだった。
「予感ね……姉さん、昔から霊感みたいなのあったものね。虫の知らせみたいな、ものだったのかな」
「霊感……」
 千歳の目がわずかに見開かれる。複雑に絡まっていた思考がするすると解けていったのを感じた。
「そうやこの感じ、まさか、そういう……」
 千歳は再び思考の海に潜ると、徐に立ち上がってリビングを後にした。千鶴はそんな姉の背中を心配そうに見つめることしかできなかった。

 

 普段、敢えてその話題を口にすることはないが、千歳には所謂霊感と呼ばれるものがあった。
 彼女がそう確信を持つにいたる数々の体験は、はっきりと事実であると言い切れるものではなかった。しかし彼女自身その類の事柄が嫌いではなかったし、実害がなかったこともあって、霊感の存在を信じていた。
 千歳にとってこれは今までは受動的だった霊感を能動的に扱う初めての機会だった。そんなことに端を発する高揚感を、かわいい後輩のために何かをしなくてはという使命感でくるんで頭を満たした。それは少しずつ妄執へと変わっていく類の衝動だった。千歳も少なからぬショックを受けているのだ。
 思考の絡まりは解けたが、糸口は見つからない。千歳は家中をぐるぐると意味もなく歩き回り始めた。そして少し考えては甘い着想を破棄し、自分の納得できる結論を模索した。まるで厭世的でステレオタイプな研究者のような状態だった。
 考え続けた千歳はやがてひとつの仮定を導き出した。
 それは、向日葵はここ数日ごらく部の活動の中心となっているらしいあの箱から出る、何かしらの悪い気に中てられて死んだのではないかといったものだ。
 数日中の変化といえばそれぐらいだ。
 そもそも箱を持ち込んだのは向日葵たちだ。
 初めてあの箱に触れたときに何か嫌な予感がした。
 一緒に箱に関わっていたあかりも体調を崩している。
 どれも確信に至るには信頼性に欠ける程度の事柄だったが、積み重なっていくと無視できないもののように感じられた。
 現時点で否定しきれないある程度の事実に基づいた推測ができればそれでよかった。向日葵の死に対して何か行動を起こさなければならないという強迫観念じみた衝動に従っていた。それこそ、何かに取り憑かれてしまったかのように。

 

 千歳は幼少期より妄想の強い子供だった。正確には、妄想の強い子供だと、みなされていた。
 物心つく前の千歳は、双子であったにもかかわらずに独りで遊ぶことが好きな内向的な性格だった。しかし時折、普段の彼女がそんな性格であるとは到底思えないほど快活に笑い、楽しげに話す様子が観察された。
 彼女の母が珍しく千鶴とでも遊んでいるのかと様子を窺うと、千歳ひとりだ。しかし後で本人に話を聞けば、決まって誰々と遊んでいたといったようなことを話す。
 母は豹変とも言えるようなその振る舞いや幻覚でも見ているかのような言説に一抹の不安を覚えたが、本などをあたり、その行為は物を擬人化しているのであり、幼少期にはよく見られるものだという記述を見つけて安心していた。
 しかししばらくすると、それとは別の症状に悩まされることとなる。それは頻発する鼻からの出血だった。
 初めは単なる鼻血――鼻粘膜の慢性的充血によって繰り返されるもので、これも子供にはよくあるもの――だと考えた。しかし、ある日母親は気づいてしまう。鼻血を出すのは例の妄想独り遊びで豹変するときだけだ、と。
 千歳の妄想は日増しに強くなっていく。鼻血の随伴する頻度も増えていく。また、双子であったことが災いし、千歳の異常さは千鶴と容易に比較され、際立った。
 母親は様々な医師を頼ったが原因はわからない。医師やカウンセラーは長い目で見るべきだというような説明をした。
 千歳の父は仕事柄転勤が多く、当時は単身赴任をしていた。母は彼に何度も相談をしたが仕事の都合上顔を合わせることができないことに加え、原因が不明なためにはっきりとした説明もできなかった。その結果、父には事の深刻さが上手く伝わらずに大したフォローのないまま、彼女にとっては地獄のような日々が過ぎていった。
 就学を来年に控える段になっても千歳の症状は改善しなかった。その頃の千歳の症状は幼児期のような苛烈なものではなかったが、日常生活には支障を来たす程度には重かった。
 焦点の合わない目で宙を見据えて妄想に浸る様子が非常に高い頻度で見受けられた。大きな声を上げることはなくなったが、その代わりに様々な感情が薄れ、時折何かに怯えながら鼻血を出し、しばしば昏倒した。出血が酷いときには救急搬送されることもあった。
 母は次第に疲弊していった。様子を聞いていた祖母が見かねて子供たちを一時的に預かることになった。その祖母が、千歳を妄想の檻から救い出してくれたのだ。

 

 千歳のオカルト的知識の大半は祖母からのものだ。
 祖母の故郷は土地柄不思議な伝承が多く、必然そういったものに対する造詣が深かった。そして幼少期の千歳の様子を見て、その知識を生かすことにした。大まかに言えば千歳の妄想を型に嵌めることができないかと考えたのだ。
 祖母はまず、妹の千鶴に対して不思議な逸話や怪しげなおまじないなどの話を面白おかしく話して聞かせた。
 その頃の千鶴は千歳を疎むことを隠しもしない親に対してある種の反感を抱き、結果として姉に懐いていた。千歳は別段千鶴と仲がいいわけでもなかったが、遠ざけもしなかった。
 そこで祖母は千鶴からアプローチして、千歳も巻き込む形を取ろうと考えたのだ。感情の乏しい状態の千歳には、まずはとにかく他者との関わりが必要だった。
妄想にあるモノに対して名前を与えたことで、実体のないはずのものに逆に固執するといったように、治そうとする過程において新たな病理が出現してしまう可能性もあった。しかし祖母は双子の姉妹の繋がりを信じ、話を聞かせ続けた。
 実際はその対処が存外に上手くいき、小学校へ入学するころには少し変わったおとなしい子供ぐらいにはなっていた。千歳と千鶴の仲は格段に良くなった。ふたりは両親の元へと戻って仲良く学校へ通い始めた。

 

 そのような経緯で、今でも千歳と千鶴はかなりのおばあちゃん子である。オカルティックな思考に囚われた千歳の足は自然と祖母の部屋へと向いていた。あの箱の正体に迫ることができるかもしれないと思った。
「おや、どうしたのちとちゃん」
「おばーちゃんちょっといい? ……あのな、ちょっと訊きたいことがあってん」
 千歳の祖母はにこにこと笑って彼女の話を聞いた。しかし千歳が例の考えを話しだすと、徐々にその顔つきが険しくなっていった。それに気づかない千歳ではなかったが、構わず一気にすべてを話してしまってから、祖母の言葉を待った。祖母は難しい顔でいろいろと考えを巡らしているようだったが、しばらく間をおいて静かに話し始めた。

 

 結局祖母は終始「危ないから関わるな」という類のことばかり言っていた。何か有力な手掛かりが聞けるかもと意気込んでいた千歳がそれを追及できない雰囲気をひしひしと感じたほどだった。
「そうなんや……ありがとうおばーちゃん」
 気圧された千歳はしぶしぶ退散した。襖を後ろ手で閉め、深く息を吐く。
そして先程の話から少しでも何かが得られないかと、自分なりに整理をしてみた。
『箱には本当に危険な逸話がいくつもある』
『差別はいけないことだ』
 箱ということに絞って調べればいくつも情報が見つかりそうだということはわかる。しかし差別の話にはどんな含意があったのだろうか。
 祖母が肝心の詳細をあまり話したがらないこともあって、危険なことが絡んでくることは理解した。しかし千歳は止まらない。思い出したかのように時刻を確認するが、もう日も落ちようかという時分である。
 千歳は短く溜息を吐くと、自室に戻った。
――また明日、しっかりと調べるにはしっかりと休まんと。
 寝間着を持つと、すぐ風呂に向かった。部屋にいた千鶴が何やら言いたげな視線を向けてきたが小さく笑って躱した。
 千鶴はこちらに踏み込まないでほしいとばかりに。

コトリバコ×ゆるゆり 第六話

 

◆九月六日(金) - いずれの過去

 

 櫻子は今日も一縷の望みに賭けて向日葵を待ったが、彼女は現れない。昨日送ったメールにも返信がなかった。それほどに病状は深刻なのだろうか。それともどうでもいい内容だと判断されてしまったのか。終いには、そんな風に考えてしまう自身に対して落胆し、学校に足を向けた。
 櫻子が教室に入ると、すでに登校していたちなつが話しかけてきた。挨拶とともに二言三言言葉を交わしたが、櫻子の明らかに覇気を失った様子に耐えかねてか、ちなつは静かに自分の席へと戻っていった。
 見渡せばいつもと同じ日常が繰り返されている。しかし捉え方によっては誰もがいつもとは違う特別な事情を抱えていると言えるのかもしれない。向日葵やあかりの欠席は、そんな日常の中に埋もれてしまっているかのようだった。
「先輩のとこに行かなきゃ」
 櫻子は無表情で気が抜けたように呟いた。
 先日、綾乃はいつでもいいと言っていたが、何かの作業なら自分だけでも進めてしまおう。そんなことを考えていた櫻子だったが、向日葵の負担を軽くしたいのか、彼女自身が弱っていることで人との関わりを望んでいるのか、もうわからなくなっていた。

 

 昼休みのことだった。
 櫻子はふわふわとした足取りで生徒会室に向かった。訊けば先輩方はちょうど生徒会室にいるとのことだった。
「こんにちは……あ、会長。久しぶりですね」
 今日はりせが来ていた。
 綾乃は入ってきた櫻子を一目見るなり何か言い知れぬ不安を感じた。それは触ると消えてしまいそうな危うさに思えた。
「……大丈夫? なんだか顔色が悪いみたいだけど」
「大したことないです。それより例の用事なんですけど」
 綾乃は少しだけしまったというような顔をした。後ろから千歳が彼女の背中をこっそりつついた。
「ああ、そのことならいつでもいいって……いや、いいわ。じゃあえっと、その大室さん、明日のご予定は?」
「……」
 櫻子が話していると、りせと視線が合った。
「明日ですか……明日……」
 話を続けようとする櫻子だったが、なんとも表現しようのない、不思議な感覚に襲われて次の言葉が出てこない。随分と引き伸ばされた数秒が経ち、会長がかすかに微笑んだ。何だかとても安らかな、隙間だらけの心に沁み渡るような――
「お、久しぶりー」
 瞬きをひとつして我に返った櫻子が振り返ると、そこには京子と結衣が立っていた。
「と、と歳納京子どうしたのいきなり!」
「綾乃ちゃん。嬉しいのはわかるけどちょっと落ち着いて」
 京子の突然の登場に大声をあげる綾乃と、それをなだめる千歳。がらりと場の空気が変わって急に日常が戻ってきたようだ。京子はいつもの調子で言う。
「なんだよー。いきなり来ちゃ駄目なの?」
「おい京子、お前ちょっと……」
 京子のそんな適当な発言を受けて、結衣が少々硬い表情を浮かべて奥をちらりと窺った。少し気後れした様子だ。
「あの……」
 入口から遠慮がちに声がして、皆一斉に視線を向けた。入口には今度はちなつが立っていた。
「あれ、吉川さんも来たん?」
 千歳のそんな言葉に、櫻子はわずかに肩を震わせた。
「……こんにちは。その、これってやっぱり……」
 昨日の謝罪のときよりも萎縮した様子のちなつが、恐る恐るといった風に状況を確認しようとした、その時――
「おいっ! あ、もう揃ってるな……いや、今はそれどころではない」
 突然、ものすごい剣幕で西垣教諭が駆け込んできた。
「……いいか、みんな落ち着いてよく聞け」
 呆気に取られる面々だったが、教諭はそんな様子などお構いなしにいったん言葉を切ると、顔を歪めて続きの言葉を絞り出した。
「古谷向日葵が、亡くなったそうだ」

 

 綾乃か誰かの短い悲鳴を背後に聞き、櫻子は生徒会室を飛び出した。その辺を歩く日常の住人はそのただならぬ様子に驚いた様子だったが、当然櫻子の目には入らない。とにかく向日葵の元へ。それで頭はいっぱいだった。

 

 生徒会室では「とりあえず後は頼んだ」と言い残して西垣教諭が櫻子を追い、残された面子は消化しきれない衝撃に支配されていた。
「亡くなったって……死んだってことか?」
 虚空に放たれた京子の呟きで、堰を切ったように綾乃が泣き崩れた。ちなつは状況が理解できないとばかりに小さく首を振る。結衣は硬直し、何やらぶつぶつと呟いていた。りせは辺りをゆっくりと見回しているが、事態を把握しかねているように見える。
 そんな中、千歳だけ毛色の違う、険しい表情をしていた。
――なんやろ、これ、普通じゃない。
 これは単なる不幸ではないと千歳は感じていた。もちろん論理的な推察ではない。最近頻繁にそういった感覚に見舞われていたが、向日葵の死という事実を得てそれは徐々に形をなし、千歳に告げた。
 もう非日常に足を踏み入れてしまっているのでは、と。
 千歳は何か自分にできることはないかと考え始めた。踏み入れてしまったことがわかっているのなら、そこから逃れることもまたできるかもしれない。
 しばらくの間、誰もが次の行動を取れない、間延びした時間が流れていた。
 ちなつは震え始め、結衣はこぶしを握り、京子ですら表情を失っている。この場にいる者の中ではとりわけ綾乃のショックが大きいようだ。当然だ。向日葵とは同じ生徒会メンバーとして、決して短くない時間を一緒に過ごした。綾乃はもちろん、千歳にとってもかわいい後輩だ。その死に対して何も感じないわけではなかったが彼女の勘は「このままでは危険だ」と告げていた。
――綾乃ちゃんは、うちが守らんと……。
 嗚咽を漏らす綾乃の手を握り、千歳は決意した。

 

 今は一体何時なのだろうか。そもそも昼なのか夜なのか。ぼやけた意識で向日葵はそんなことを考えていた。雨戸を閉め切り、また別の窓には遮光カーテンを引いた部屋の中は昼でも薄暗かったし、そもそも用を足すとき以外はずっと布団にくるまっていた。しかし、最後に布団を出たのはいつだったろうか。向日葵はそういった生物として最低限の行為すら忘れてしまっている自身の体を想う。
――大丈夫。お医者さんもただの風邪だろうって……。
 そんなわけないだろ! と櫻子の声がした気がした。
――寒い。櫻子。動きたくない。寒い。寒い。どうして来てくれませんの? こんなに寒いのに。こんなに会いたいのに。
 向日葵は刻一刻と意識や、大切な何か失われていくのに抗うように思考を続けていた。しかしその思考が上手くコントロールできない。何かに流される、吸い寄せられるように。長く細いものに絡めとられるかのように。
 櫻子はもう向日葵のことなど忘れて皆と遊んでいるのではないか。あの箱で遊んでいるのではないか。そうだ、あの箱は開いたのだろうか。中には何が入っていたのだろうか。
――あの箱は日曜日に、あのとき櫻子が遅刻して、それで……櫻子。ああ……そうだ明日は――

「具合はどうな……っ! 向日葵! 向日葵っ!!」
 向日葵の母は部屋に入るなり目に飛び込んできた惨状に半狂乱となって向日葵に駆け寄った。ちょうど櫻子を見送ってきたところだった。「櫻子ちゃんも心配しているから――」たった今、扉を開けるまで話そうとしていた何もかもが一瞬で塗り替えられる暗い赤色。
「お母さん……あの、明日、櫻子の……」
「大丈夫よ! ちょっと待ってすぐに――」
「その、引き出しに……」
 向日葵はもう母の言葉が聞こえていないらしかった。ふるふると震える指先が机を指し示す。
「向日葵っ! ダメ! 待って、頑張って!!」
 母は思わずその手をつかんだ。部屋に慟哭が響き渡る。向日葵は満足そうに微笑むと、静かに目を閉じ、口元をわずかに震わせた。
 それきり、彼女の瞳が世界を映すことはなかった。

 

 生徒会室を飛び出した櫻子は、西垣教諭の車に乗せられて病院へと駆けつけたが、向日葵は既に息を引き取っていた。
 櫻子は周囲の涙を請け負ったかのように散々泣き喚いた後、なんとか引き離され、直接家に送り届けられると、部屋に閉じこもってしまった。
 他の生徒会室にいた面々は皆一様にショックを受けていたようだったが、中でも一番取り乱していたように見えた綾乃が静かに、しかし頑なに「授業に行きます」と言うので、他のメンバーもそれにならって五時間目の教室へ向かった。

 

 放課後になって、皆なんとなくふわふわとした足取りで三々五々分かれ、帰路についた。少しでも会話をすればそれを思い起こさずにはいられない。暗黙の裡に思考を閉ざすためには仕方がないことだった。
 いつもと変わらない道を結衣はそそくさと、まるで機械のように一定の歩調で歩みを進めていた。周りは見えているようで見えていない。事実がただ認識されるだけといった不思議な感覚だった。まるでその認識された事実が感情を呼び起こす前で寸断されているかのようだ。周囲の状況を最低限、それこそ機械的に判断し、赤信号では止まり、道の端を歩き、そのまま何事もなく帰宅した。
 そして玄関に足を踏み入れてからようやく、この無人の部屋に帰ったところで何の安らぎも得られないことに気がついた。しかし、だからといって何もする気が起こらない。
 それでも何かをしていないと圧しつぶされてしまいそうに感じた結衣の脳裏にふとあかりの顔が浮かぶ。あかりはどうしているのだろうか。
――そうだ、あかりはあのことを知らないんだ。
 何分急なことで、結衣にもこれからどうなるのか何もわからないのだが、せめてその事実だけでも伝えようと思った。
 所詮は平静を保つための利己的な行為であると、結衣の中にわずかに残る冷静な部分ははっきりと告げていたが、裏腹に体は上手く言うことを聞かない。震える指で携帯電話を操作し、何度か間違えながらもなんとかあかりの携帯に電話をかけることに成功した。しかし中々電話は繋がらない。業を煮やした結衣は自宅の電話にかけ直した。するとすぐに電話は繋がった。電話口には姉のあかねが出た。
「え、それは……そんなことって……」
 知っている限りの事実を話したところ、当然と言えば当然だろうが、あかねはひどく動揺していた。
「また、何か連絡があればすぐにお伝えします」
「あ、待って! その……知ってれば教えてほしいんだけど」
 おそるおそるといった風に、あかねは訊ねた。
「向日葵ちゃんって、どんな症状だったか……どうして亡くなってしまったのか、聞いてる……?」
「いえ、すみません。詳しくはわからないんです」
「そっか……」
 何もわからない。結衣は率直にそう答えた。しかし、その死因は見舞いに行っていた櫻子やその今際に立ち会った母親はもちろん、診断した医師にさえ不明であった。そのため、あかねの求める解答を出せる者は、そもそもこの世に誰もいなかった。
 最後にお大事にと伝えてほしい旨を話し、電話を切る。
 もうこれで役割は終えたとばかりに気の抜けた結衣は、急に輪郭のぼやけはじめた世界を眺めて思った。
――早くいつものように、みんなと部室で……。

コトリバコ×ゆるゆり 第五話

 

◆九月五日(木)- いつのかくれもの

 

 翌朝、気分晴れやかに家を出た櫻子は一転、直後にひどく落胆した。しかしなんとか、どこかでそんな気はしていたのだと自身を落ち着け、静かに門の傍で向日葵を待った。
 遅刻ぎりぎりまで待ったが、結果は芳しくないものだった。
 何度か向日葵の家の前まで行ったが、結局チャイムを鳴らすまでには至らなかった。今この場にいないということは、まだ体調が回復していないことにほかならない。
――学校終わったら、また来るから。
 櫻子は静かにその場を後にした。

 

 朝のホームルームにて、今日は向日葵に続いてあかりも欠席したということが知らされた。最後に先生は「休みの疲れが出てくる時期だから体調管理には気をつけるように」と言って締め、一日が始まった。
 長期休暇を引きずっていた気だるい雰囲気も徐々に薄れ、教壇に立つ先生の声もいつもの調子を取り戻していた。しかし、櫻子はそんな授業のことはもちろん、休み時間も上の空で終始話しかけづらい雰囲気を振りまいていた。
 当然ちなつと話すこともなく、ふたりの関係が改善する気配は見られない。昨日その仲をかろうじて取り持っていたあかりがいないことも追い打ちとなっていた。
 帰りのホームルームでも、櫻子は心ここにあらずといった様子だった。
――向日葵に会いたいなあ。
 今日一日で何度思い浮かんだフレーズかわからない。最後の号令を聞くと火がついたように帰り支度をはじめた。とにかく早く向日葵の顔が見たかったのだ。
 いつになく急ぐ櫻子に、いつになく小さく頼りなさげなシルエットのちなつが声をかけあぐねていた。いつものちょっと勝気で快活な瞳は見る影もなく下へと落とされ、トレードマークのふたつに括った髪も、力なくうなだれているように見えた。そうやってちなつがまごついているうちに櫻子は支度を終え、今にもかけだしそうになってしまう。
「あ、あの!」
 ちなつは意を決して櫻子に話しかけた。緊張で声が裏返る。背後からの声ではあったが、櫻子はぴたりと動きを止めると、少し間をおいて静かに声の元へ振り返った。話しかけられる前から目には入っていたのかもしれない。ちなつはこぶしを握りしめると、勢いよく頭を下げて謝罪の言葉を述べた。
「ごめんなさい! 私、ちょっと……ううん、すごく、言いすぎたと、思う」
 一時、櫻子の思考が止まった。つっかえながらも必死に想いを伝えるちなつに少しは感じ入るものが確かにあった。
「ううん。こっちこそ、ほんとごめんね」
 謝罪の言葉を口にできたことで、自然と頬が緩む。しかし、ほどなく櫻子の中に自己嫌悪の念がかすかに芽生えた。
「あはは」
 朗らかに微笑み、素直に安堵感を表すちなつ。それを見た櫻子は心に冷たい風が吹き込んできたかのように感じ、力なく微笑み返した。傍から見れば清々しい仲直りだった。
「そうだ……今度向日葵ちゃんにも謝らなきゃ」
「え、あ、うん……そうだね」
 ちなつからその名前が出たことで少し動揺した櫻子だったが、お陰で先程までの自身の行動を思い出す。
「じゃあ、ちなつちゃん。今度また、向日葵と遊びに行くから、その……」
「うん。みんなであの箱開けようね。じゃあ向日葵ちゃんにお大事にって伝えて。行くんでしょ? 向日葵ちゃんの家に」
「そうだね。じゃあ……また明日」
「またね!」
 晴れ晴れとしたちなつと対照的に、櫻子はそそくさと、逃げるようにその場を後にした。

「こんにちは。櫻子です」
 とにかく向日葵に会うことさえできればと急いで帰途についた櫻子は、すぐ隣にある自宅の門をくぐることなく、向日葵の家を訪れた。もはや一刻の猶予もないといった心持ちだった。
 インターホンに向日葵の母が出て、しばらく。櫻子はいつもの何倍も長く待たされたように感じていた。
「ごめんね。お見舞いに来てもらって悪いんだけど――」
 どうも向日葵の体調は相当悪いらしかった。医者にかかったところ疲れからくる風邪だろうとの診断だったらしいが、うつすと悪いからと家に上げてもらえなかった。
 失意のままに帰宅すると今日は珍しく誰もいない。櫻子は冷房のスイッチを入れ、ふらりとソファに倒れ込んだ。
 今日の櫻子を支えていたものが崩れ去ったのだ。見舞いもできないのであればあとは待つしかない。そして横になったまま、何を考えるでもなくただただそこに存在していた――

「ただいま。あれ、ひま子んとこ行かなかったのか?」
「うつしちゃうから駄目って言われて……あれ、ねーちゃん? もう帰ったの?」
 櫻子が気づくともう撫子が帰宅するような時間だったが、無感動にそれを認識しただけだった。ひどくがっかりしただけでこの有様だ。時間感覚が虚ろで生気が感じられない。
「『もう』って櫻子……あんたこそ、『もう』うつってるんじゃないの? 週末までに治しときなよ」
「うーん。明日は治ってるといいけど……調子狂う……」
「いや、ひま子の体調は……まあ、そうだね。治るといいな」
「うん……」
 撫子は、そんな櫻子に一瞬優しい顔をしたが、すぐ真顔に戻ると部屋を出ようしたところでふと立ち止まった。
「そうだ。訊いてなかったけど明後日は家にいるの? それとも友だちんとこ?」
「……向日葵が良くなってなかったら帰る」
「そう。じゃあ出かけてくるから」
「うん」
 ひらひらと手を揺らして撫子は部屋を後にした。櫻子は再び無気力感に襲われそうになったが、人と話したことで気分はいくらか落ち着いていた。
――向日葵の話をしたからかな。そうだ、メールぐらいなら。
 そんな思い付きに少し活力を得た櫻子は、携帯電話を取り出して向日葵にメールを送る。
「はい、送信っと。よし!」
 櫻子は勢いをつけて立ち上がると、途端に腹が鳴った。
「う……なんだかおなかすいたな。給食残さなきゃよかった」
 何か食べるものはないか。いやまずは飲み物だなと櫻子は台所の方へとふらふら歩いて行った。

コトリバコ×ゆるゆり 第四話

 

◆九月四日(水)- 体調奇異安堵感

 

 翌朝、櫻子は起きてすぐに昨日の出来事を思い出した。
 一晩が経ち、気持ちを整理した今、櫻子の心中はあのような怒りを向けられて、悲しくも、苛立ってもいなかった。ただ、向日葵が櫻子と一緒になって精一杯謝罪をしていた場面が頭から離れず、なんとなく気分が晴れなかった。
 ともあれ、ある種の仲違いをしたままであること自体憂鬱だ。単純に頑張って描いた絵を台無しにしてしまったことに対して申し訳なくも思っていた。
 そんなことを考えながら、いつもの時間に家を出た櫻子は、すぐ足を止めた。何かがおかしい。
「あれ、向日葵……」
 そうだ。向日葵の姿が見えない。いつもならば彼女が先に櫻子を待っていて、家を一歩出たところで「おはよう」と声をかけてくれるはずなのだ。
 彼女も機械ではないのだからそんな日もあるだろう。いつもは待ってもらっているのだから今日ぐらい自分が待つ側に立ってみるのも良いかと一度は考えた。
 しかし、向日葵の家はすぐそこにあるのだから様子を窺ってみればいいじゃないかと思い直し、古谷家の門扉まで歩き、チャイムを鳴らした。
「おはようございます」
「あ、おはよう櫻子ちゃん。ごめんなさいね」
 玄関先に向日葵の母が現れた。
 話によると、向日葵は昨日帰宅してすぐに体調が悪いと言って寝てしまい、今朝になっても具合が良くならないらしい。
「だから今日は学校お休みすることになりそう」
「わかりました。そっか……じゃあ放課後、また来ます。お大事にと伝えてください」
「ありがとうね。そうだ、櫻子ちゃん昨日、向日葵と一緒にいたんでしょ? もしかしたら櫻子ちゃんも体調崩しちゃうかもしれないから、気をつけて。行ってらっしゃい」
 向日葵の母に見送られて、櫻子はひとりで登校する。こんなことは久しぶりで、一体いつ以来だろうか――などと考えながら通学路を歩いていると、前方にあかり、結衣、そして京子の三人を見つけた。
 櫻子はなんとなくひとりで歩いていることが寂しく、小走りで三人に追いついた。
「おはよう、ございます」
「おはよう大室さん」
「おーおはよー」
「あ、おはよう櫻子ちゃん! ……あれ、向日葵ちゃんは?」
 少し固くなってしまった櫻子に対して三人はいつもどおりに挨拶を返してくれた。
「向日葵は……体調が悪くて、今日はお休みだって」
「なんだーそれで元気がないのかー」
 京子はなるほどと納得したようで、ほかのふたりも向日葵のことを心配してくれているようだった。
 そのまま学校に着くまでの間、他愛ない話をしたが、向日葵が隣にいない櫻子は心の底に穴が開いたかのような、感情がそこから全部逃げてしまうような、空虚な気持ちになっていた。

 

 昼休み、櫻子は二年の教室へと足を運んだ。
 今日の放課後、櫻子と向日葵は綾乃に呼び出されていた。何の用事なのか詳しくは聞いていなかったが、早い方が良いだろうと向日葵が本日欠席であることを伝えに行こうというわけだ。
「そ、そうなの。それは心配ね! また今度でもいいわ。私の方はいつでもウェルカム上高地よ」
 綾乃は事情を聞くと、少し取り乱しながらも優しく微笑んだ。
「そうやね。そしたら大室さんは古谷さんのお見舞いに行って、綾乃ちゃんは歳納さんとこに行ったらええわ」
「な、ななんで私が、歳納京子の……!」
「最近何かと忙しくて逢えないって、綾乃ちゃん寂しそうにしてたやん」
「ああ、それなら……」
 いつもの独特なテンポで綾乃を弄る千歳に、櫻子は箱の話をした。
「あ、それええね! 綾乃ちゃん一緒に歳納さんとこ行こ?」
「ま、まあ、そんなに難しいっていうんなら? 助太刀に行くのも悪くないかもしれないわね!」
 自分なんかよりもよほど行程の進行に貢献してくれることだろうと櫻子は思った。向日葵のいない遊びには、もう興味などなかった。今は箱の中身よりもずっと、向日葵の具合の方が心配だった。
「開けられたら中身がなんだったか後で教えてください」
「古谷さんにお大事にって伝えといてなー」
「私からも、お願いね」
「はい。伝えておきます。ありがとうございました」
 もうやることはやった。後は一刻も早く帰ってしまいたい。そんな気持ちになった。

 

 午後の授業にはまったく身が入らないまま、放課後を迎えた。櫻子はそそくさと帰り支度を始める。
「あの、櫻子ちゃん」
 あかりが明らかに急いでいる様子の櫻子におずおずと話しかけた。ちなつは少し離れたところに立ってこちらを見ているようだ。
「なに? あかりちゃん」
 急いではいたが、手を止めてあかりの方に向き直る。ちょっと胸を撫で下ろしたあかりは、続けて言った。
「その、今日は向日葵ちゃんのお見舞い?」
「そう。プリントとか渡すものもあるし……」
 櫻子がちらりとちなつの方を窺うと、ちなつは慌てて目を逸らした。あまり良い雰囲気ではない。
「そ、そうだよね。ごめんね、急いでるところに」
「いいよ別に。そんなに急いでるってわけじゃないし。こっちこそごめん、今日は一緒に行けなくて」
 臆するあかりに、櫻子は努めて丁寧に答えた。あかりは何も悪くないのだ。
「ううん気にしないで。向日葵ちゃんにお大事にって伝えて」
「うん……」
 あかりのいつもどおりの優しさに申し訳ない気持ちが膨らむ櫻子。あかりはさらに続けて話した。
「あかりもちょっと体調が悪いんだぁ。風邪が流行ってるのかもしれないから、櫻子ちゃんも気をつけてね」
「ありがと。あかりちゃんもお大事にね。……あ、そうだ。今日はもしかしたら杉浦先輩たちが部室に行くかもしれない」
 ふと昼休みのことを思い出した櫻子は一応あかりに伝えておくことにした。
「え、どうして?」
「さっき先輩たちに会ってそのときに箱のことを話したんだけど、そしたら今日の放課後、手伝ってくれるようなことを言ってた」
「そうなんだ、わかった。じゃああかりたちも……行くね」
「じゃあね、あかりちゃん」
「うん。櫻子ちゃん、ばいばぁい」
 櫻子は帰りの支度を終えて帰路へ、あかりとちなつは部室へ向かった。
 最後までちなつと櫻子は目を合わせなかった。

 

 部室にはいつものメンバーが揃っていたが、いつものごらく部とはかけ離れた空気に満たされていた。ムードメーカーであるちなつが昨日のことで落ち込んでいるためだ。
 ちなつは朝から何度も櫻子に対し、謝る機会を窺っていたのだが、ついに謝ることができないままに放課後を迎えてしまった。
 しばらくして、そんな雰囲気を打ち破るように生徒会のふたりが部室に足を踏み入れた。
「歳納京子ー! 何やらお困りのようね!? ……って、何?」
「おじゃましまーす……何かあったん?」
 早々に気がつくほどの重い空気に一瞬面食らったふたりだったが、話を聞いていたあかりがにこやかに出迎えた。
「あ、来てくれたんですね。櫻子ちゃんから話は聞いてます。先輩たちも、一緒に開けるの手伝ってくれるんだって」
 この機会を逃さず、結衣と京子もそれぞれに明るく振る舞い、これまでの攻略状況等をざっと説明した。それを聞いた綾乃はすぐに乗り気になったが、説明の途中から何やら千歳の様子がおかしい。
「なるほど! じゃあ早速……どうしたの、千歳?」
「ん……ああいや、何でもないんよ」
「そう……ならいいけど」
 心ここにあらずといった感じな千歳であったが、何もないと言うので綾乃は追及をやめた。
――なんやろ……この箱……。
 口ではああ言った千歳だったが、なぜだかとても――話によればパズルのようなものらしい――目の前の箱が気になっていた。魅入られる、とでも言おうか。
 しかしそんな本能的な予感めいたものも、綾乃の気を遣わせてしまったたことで即座に振り払われた。これは綾乃と京子が仲良く遊べて親交を深められるかもしれない、稀有な機会である。千歳が最優先すべきはそこにあった。
「そうや歳納さん。何か気づいたコツとかないん? 触る前に多少は知っといた方がええやろなーと。ね、綾乃ちゃん?」
「え、えっ!? わ、私は別に」
「それもそうだなー。じゃあ綾乃、ちょっとこっちに来てよ」
「し、仕方ないわね……」
 恥ずかしがる綾乃の背中をそっと押し、千歳は横目でちらりと辺りの様子を窺った。先程からちなつの口数が明らかに少なく、気落ちしている様子が見て取れる。少し顔色が悪いようにも見えた。そんな千歳に結衣が静かに耳打ちをする。
「ちなつちゃんがね……ちょっと元気なくて、雰囲気が暗くなっちゃってたから、来てくれて助かった」
 どうも何かがあったらしい。
「うちらも来たくて勝手に押しかけただけやから、気にせんといて。ほな船見さん、一緒に考えよ」
「ありがとう……よし! そしたら――」
 千歳は柔らかく微笑むと無難にそう返した。結衣は気を取り直してといった風に姿勢を正すと、箱攻略の見通しについて千歳に話しはじめた。ひとつ疑問が解けて、千歳の意識は結衣の話を聞きながらも再び箱へと吸い寄せられていった。

 

 帰宅の途中で、櫻子は向日葵の家を訪れた。
 思っていたよりも向日葵は元気そうで、明日は学校に行くと言い、櫻子と他愛もない話をして笑い合った。
 櫻子は彼女といるときが一番自然体でいられて落ち着くということには気づいていない様子だが、日頃当たり前のように存在するものがどれだけ尊く、大切なものなのかということはいざ離れてみないとわからないものである。
 櫻子は今日一日向日葵がいなくて調子が狂った気がするだとか、おそらく今綾乃たちが箱の攻略の続きをやってくれているだろうことなどを話した。
 ちなつとの関係がまだ修復されていないということは、話さなかった。

 

 その日の深夜、まだまだ蒸し暑さが続いて寝苦しい夜だったが、向日葵は布団を被って震えていた。
「なに……? どうしてこんなに寒いの……」
 悪寒戦慄。向日葵は必死に自らの両肩をかき抱き、なんとか体温を逃すまいとしていた。しかしその動作は緩慢である。
「体が、重い……ごめんなさい櫻子、明日行くって言っちゃったけど……」
 夕方、櫻子が見舞いにきたとき、本当は体調が良くなってなどいなかった。あんまり櫻子が向日葵がいないとダメだと繰り返すために嘘を吐いてしまったのだ。その上、学校に行けるだなんて楽観的なことまで言ってしまった。
「ごめんなさい櫻子、ごめんなさい……」
 一秒ごとに苦しさが増している気がしていた。向日葵は、この明らかに異常な体調に対する不安を、櫻子のことを考えることで紛らそうと、何度も何度も櫻子の名を呼び、謝り続けた。


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