◆解答編 - コトリバコ
もちろんごらく部及び生徒会主要メンバーの同時変死はその日のうちに発覚し、近隣地域は騒然となった。
当然学校は数日間の休校となり、関係各所は厖大な事務処理に追われることとなった。彼女たちの非日常は、そうして皮肉にも彼女たちの死後、その持ちえた世界に遍く拡がったのだった。
死因や交友関係等を勘案され、一連の死亡事件(事故?)被害者には向日葵の名も書き連ねられた。
西垣教諭の連絡後数分で救急隊員が七森中内茶室に到着したが、現場で速やかにそこにいた池田千歳、杉浦綾乃、吉川ちなつ三名の死亡が確認された。同じく現場にいた池田千鶴は当時かなり衰弱していたが命に別状はなかった。大事をとって数日の検査入院となったが、翌日にはもう何事もなかったかのように健常であったという。
古谷向日葵は自宅で急性症状を起こし救急搬送先で原因不明の急死。赤座あかりは体調不良で自宅療養をしていたが、池田千歳ら三名が死亡したほぼ同時刻に自宅で同様の症状を起こし死亡していた。
また、救急通報のあった直前まで茶室にいた船見結衣及び歳納京子は、船見結衣が平時下宿していたアパートの一室で折り重なるようにして死亡しているのが、同日のうちに発見された。血塗れの女子生徒を見たとの近隣住民からの通報を受けての捜索によるものだった。検死によればやはり交友関係のあった同校生徒と同様の死因であったという。
直接の死因は、皆に共通してあった消化器に対しての重篤な損傷に起因するものであり、急性のものでは失血性及び痛覚刺激による神経原性のショック死、亜急性においては敗血症と見られる高サイトカイン血症によるショック死であった。
原因の究明は困難を極めた。
遅行性の毒による他殺、集団食中毒、集団自殺、未知の感染症罹患といった過激な憶測がいくつもなされたが、直接の原因はわからずじまいだった。
事件から短くない時間が経ち、櫻子は喪服に身を包んでいた。本日は被害者生徒の合同葬ということで、朝から落ち着かない気持ちで過ごしていた。
あの日、親しい友人を一気に失ってからの櫻子は、しばらくは昼も夜もないような生活をしていた。当然、今もまだその傷は癒えておらず今日の葬儀もなんとか出席できた。
葬儀自体はつつがなく終了した。式場にはもちろん千鶴の姿もあったのを、櫻子は静かに確認した。彼女と自分、家族と親友という違いはあれど、同じ大切な人たちを亡くした者同士、多少は想うところがあった。
式場を後にしようとしたとき、脇から櫻子を呼び止める声があった。西垣教諭だった。少し櫻子に話があるということだった。櫻子が不安定なこともあり、一緒に葬儀に参列していた彼女の家族は眉をひそめた。しかし、教諭の背後に千鶴の姿を認めた櫻子は、不意にどうしても彼女と話をしてみたくなり、なんとか家族の了承を得た。
西垣教諭は千鶴とともに櫻子を別室へと通した。
そこはテーブルと椅子が何脚か用意されただけの控室のような小部屋で、テーブルの向こうには既にりせが座っていた。
意外な人物の登場に櫻子は一体何が始まるのかと不安な気持ちになったが、黙って促されるままに入り口近くの席に着いた。千鶴も神妙な面持ちで隣の席に、西垣教諭は櫻子の向かいの席へと腰を下ろし、四人で向かい合うような形となる。
「さて……悪いね、手間を取らせてしまって。ちょっとふたりに訊きたいことがあるんだが……」
ゆっくりと教諭は話を切り出したが、教諭らしく一呼吸おいて、聴き手の注目を集めた。
「まずはあの子たちのために改めて少し手を合わせようじゃないか」
「質問のためにちょっと遠回りになるんだが……真剣に捉えてもらうためには仕方がないんだ。我慢してくれ」
西垣教諭の話はまず不思議な前置きがあって、彼女の専門らしからぬ歴史の授業のような話題から始まった。
「戦国時代ほどじゃあないが、結構昔の話だ……ある西の方の村に、落ち人が逃げ延びてきたんだ」
話す内容も、その立ち居振る舞いから感じる雰囲気までもが普段の教諭を知っている者が見たら別人かと見紛うほどに豹変していた。
櫻子と千鶴はその雰囲気にすっかりと呑まれてしまって、ただただ黙って彼女の話に没入していった。
「その村というのが、所謂被差別部落だったんだが……聞いたことぐらいはあるだろ? 道徳の授業なんかで習ったな?」
「……」
横に座るりせは置物のように微動だにしなかった。しかしそれを気にする者はいない。
「その村としては、訳有りげな余所者を入れることで厄介事が増えるのを嫌って一度はその人を追い出そうとしたんだそうだ。そこでその落ち人は交換条件として村に、ある武器の作り方を教えた……」
「そういった村というのはそこを管理する庄屋のようなところがあって、そこから特に強い迫害を受けているという事実があったらしい。それに対抗するための武器を授けようという話だった。そして武器というのは呪いの道具だったんだ。その作り方が非常に残酷なんだが……聞いてもらう」
有無を言わさずといった風に、西垣教諭の話は澱みなく続いていく。
「材料として用いるために赤子を殺す必要があったんだ。
でもその人はなぜわざわざそんな恐ろしいことをしなきゃいけないものを紹介したのだろうか……それは今となっては非常に悲しい話になるが、当時の村が今からは考えられないほどに貧しい暮らしをしていたことが関係している。
貧しいというとお金がないというイメージだろ? でも昔はもっと直接的で、要するに食べる物がないわけだ。
食べ物なんて昔なら農業で自給自足してそうなものだと思いがちだが、その農業も今みたいに機械がないから効率的にはいかない。となると人手が要る。
さて働き手を増やすためにどうしたか……子供をたくさん作ったんだ。今は少子化が叫ばれているが、逆に言えばちょっと昔は子だくさんなのが当たり前だったわけだ」
閑話休題。ちょっと失礼と西垣教諭は手持ちのバッグから飲み物を取り出して一口含んだ。それから「君たちも飲むか」と訊ねた。ふたりは首を振ったが、教諭はりせにお金を持たせると飲み物を買いに行かせてしまった。
さて、と話が再開される。
「話が少し逸れたが、飛ばしてしまうと説明がしづらいんだ。
えー子供が多いという話までしたな? そう、その村は貧乏で食べるものはないのに食べるものを得るために子供はたくさん作ったんだ。子供は当然食べなきゃ成長できないが、そこはなんとかぎりぎりでやっていた。
でも農業というのは非常に不安定だから……梅雨が長いとか涼しすぎる夏だとか、そういった人の力ではどうしようもない気候によって収穫物はすぐに影響を受けてしまう。それを見越して子供を作るなんてことはできない。じゃあどうしたか……っていうと、それが悲しい話なんだが……」
千鶴には予想がついていた。久しく他人と会話をしていなかった櫻子は特に何も考えることができずにいた。そういった性質の違うふたりに同程度理解させようと、西垣教諭も話しつつ苦心していた。
「どうしても食べるものがない年には、折角世に生を受けた大事な子供を殺めてしまったんだ。どうせ満足にご飯を食べさせてやることもできない。生かしてはおけないと。
そういったことが日常的におこなわれていた村だった。話を戻すと、逃げ延びてきたその人はその事実を知っていたんだ。だから村にとっては赤ん坊を殺す必要があるというのはそれほど高いハードルではなかった。
むしろ鉄を打つ必要がある直接的な武器の方が材料や技術などの問題で無理があった」
「そういうわけで、村は落ち人を受け入れることに決めた。赤ん坊を殺して呪いの道具を作った。
その道具の形は一見するとただの箱のようなものだ。さてそれをどう使うか……これがとても簡単だ。ただ呪いたい者の近くに置けばいいということだった。その手軽さも受け入れられた理由の一つだったのかもしれないな。何せ殺し合いにならないわけだから、仕掛ける方からしたらとても安全だ」
「さて、その呪いの効果なんだが……女性と、子供が何の前触れもなく死ぬんだ。恐ろしいだろう? ただ近くに置くだけで、突然女性と子供が死ぬんだ。しかもその死に方というのがこれまた恐ろしくて――」
西垣教諭はちらりと千鶴の様子を窺った。少し顔が青ざめて見えるがまだ平静は保たれているように見えた。
「突然おなかを押さえて苦しみだしたかと思うと、大量の血を吐くんだそうだ。体の表面に怪我がないのに、内臓が千切れてしまうということらしい」
大量の血、というところで千鶴の表情が強ばった。一方の櫻子の反応は薄い。それも当然のことで、彼女はあの惨劇の現場を知らないでいるのだ。
「その武器……箱と呼ぼうか。その箱は見事に村を迫害していた者を滅ぼして、それからその村が迫害されることはなくなったということなんだが、その後もしばらく作りつづけられていたらしい。そしてあるとき事故が起きてしまったんだ」
千鶴の表情が優れない。しかし西垣教諭は元より恐慌状態に陥りでもしない限りは最後まで話してしまうつもりだった。
ちょうど良いタイミングというべきか、飲み物を買いに出ていたりせが戻り、ふたりに配った。ふたりともそれに手をつけようとはしない。
「その箱の呪いというのは、残念ながらかける相手というものを選べないものだった。近くに置くだけで発動する簡単なものだったけど、融通は利かなかった。つまりある程度近くに存在する女性や子供なら誰でも、見境なく、無差別に苦しめて殺してしまうものだったんだ。
そうだ。事故というのはほかでもない。呪いを仕掛けた村の子供が、その箱が原因で死んでしまったんだ。
近づいたからってすぐに死ぬものでもなくて、ある程度の日数が必要だった……だから例えば、殺したい相手の家の縁の下に埋めるとか、そういう方法で一定の範囲内に一定の期間対象が存在するようにするわけだ。でもその呪いは近ければ近いほど強くなる。例えば、直接触るとか……いや、それぐらいならまだ早々死ぬわけじゃない。もっと良くないのが、箱の中身を外に出してしまうことだ」
今度こそ、千鶴は体を跳ねさせて小刻みに震えはじめた。
「外を覆う箱が、中身の呪いの本体ともいうべきものの強さを調整しているといった仕組みになっているらしい。特別な木材を用いていて、それで隙間なく覆うことでそれは実現されるらしいんだが……一度作ってしまったらもう開けることはない箱なんだ。むしろ簡単に開いてしまっては困る。
ではどうしたか? パズルのような箱を作ったんだよ。
いくつもの小さな部品を組み合わせて箱のような形にした。ただ蓋を嵌め殺しにしたらいいじゃないかと思うところだが……その構造自体にも何らかの呪術的意味があるのかもしれない。まあそこまで詳しいところは残念ながらわからないんだ。そもそもこれは口伝でしか伝わってない……おっと、失礼。話が逸れたな」
「とにかく、見た目にはちょっとしたおもちゃみたいな箱なんだ。それを子供が見つけてしまったら……あとはわかるだろう?」
「村の中でそんな事故があって、初めて被害者になることで、この呪いがいかに恐ろしく手に余るものであるかというのを理解したわけだ。しかしこの箱の処分がまた厄介だった」
「強い呪いの力を持つこの箱……今はコトリバコと呼んでいるものなんだが……その供養には結構な時間経過と専用の呪いが必要だった。そして現在もまだ供養しきれていない箱が残っているんだ。当然、それを供養するための技術も継承されている」
西垣教諭はここで一度言葉を切って、りせの方を向いた。りせはゆっくりと頷く。
「そこに座る松本りせが、代々コトリバコを供養する役目を負っている神社の神子だ。そして私はそれを補助する者だ」
「…………」
西垣教諭の話が一旦切れる。千鶴はいいとして、櫻子の方は未だに反応らしい反応を返さない。教諭は話を再開する。
「りせはコトリバコを管理・供養している家の長女で、近い将来に現存する箱を供養する役目を担っている神子だ。そして私は、りせが幼少期に神子を継ぐことになった際にその役目を仰せつかった神子の世話係といったところだ。
さて、大体の事情がわかっていただけたところで最後に質問だ」
西垣教諭はまくしたてる。櫻子は無表情で、千鶴は痛みに耐えているかのようにその言葉を待った。
ごくりと教諭は水分を喉に通してからふたりに訊いた。
「君たち、あのコトリバコがどうしてあそこにあったのか、知っているか?」
九月三日火曜日、櫻子が箱を持ち出してから二日目にはりせの元へコトリバコ紛失の連絡が入っていた。箱の安置されていた祠付近に残っていた痕跡等から、子供が持ち去った可能性が高いところまではすぐにわかった。これはとてもまずい事態だった。経年により作成時よりも効力が落ちているとはいえ、できるだけ早い回収が望まれたが、あまりに手掛かりが少なく、捜索は困難だった。
しかしその翌日りせは学校でかすかに箱の気配を感じた。
初めにそれを感じた場所は生徒会室だった。生徒会室には月曜の昼休みに櫻子が向日葵とともに箱を持ち込んでいたことから、その残り香のようなものを感じ取ったらしい。それは非常に微々たる気配であって、気のせいと言われれば納得してしまいそうなものだった。しかしそのときは少しでも手掛かりが得られるならと藁をも縋る思いで、西垣教諭と生徒会室をくまなく探したがそれ以上の痕跡は得られなかった。
その翌日、りせは廊下ですれ違った生徒から、再び箱の気配を感じた。しかしそれが誰であるかは特定ができなかった。
りせはその血によって生まれながらにして邪なるものを祓う資質は備えていたが、そもそも箱は安置されているものであって、所在不明のものを探索するようなことはしたことがなかったのだ。
そしてようやく金曜日になって、りせはごらく部メンバー及び生徒会の二年ふたりに当たりをつけ、昼休みに話を訊こうと生徒会室に呼び出した。そこには偶然櫻子も来たが、櫻子からは箱の気配が感じられないこと確認済みで、そのときに再度確かめてみたがやはり大丈夫そうだった。
呼び出した全員が集まり、あとは西垣教諭が来てさて話を訊こうという段になって、向日葵の訃報が入った。西垣教諭が医師や向日葵の母に確認したところ、どうも症状からしてやはり箱による被害である可能性が高いようだった。最も危惧していた被害者の出現に、関係各所は大混乱となった。
大昔ならいざ知らず、現代では死に対し詳らかにしようとするものだ。箱に関することはその由来などに係り、タブー視される性格がとても色濃く残っている。どうにかなるべく秘密裏に被害を食い止めねばならないと考えられ、結果土日を通して様々な対策が講じられたが肝心の箱は発見されなかった。ごらく部の面々に当たりをつけていたのがわずかに外れ、向日葵に被害が出たことに加え、なぜか櫻子にはまったくそういった気配がなかったことがより一層の混乱を招いた。
結論として、向日葵が関わっていた可能性が高いという事実は宙吊りになってしまった。りせが向日葵の自宅近くに赴いても気配が感じられなかったことから、死人に口なしの状態になってしまったのだ。そしてショックを受けた面々は自宅に籠っており話を訊くこともままならなかった。
そして翌月曜日。彼女らは全員登校をしてきた。これ幸いと接触を試みた。ゆっくりと時間を取ろうと放課後に話を訊くことにした。昼休み、西垣教諭は廊下を歩く綾乃と千歳を見つけ、放課後に時間はあるかと訊ねた。千歳は友人と会うので無理だと回答した。その友人は京子や結衣かと訊ねるとそうだと言う。それでは少しだけだから時間をもらえないかと皆に話してくれるよう頼んだ。千歳はすんなりと了承した。
そして放課後、西垣教諭とりせは生徒会室で待機していた。しかし一向に彼女らは現れない。不審に思っているとりせが血相を変えて生徒会室を飛び出した。その頃、部室では綾乃がちょうど箱を破壊していたのだった。
散々捲し立てた後に突然訪れた静寂にまったく違う反応を見せるふたり。千鶴は青ざめて理解を拒むかのようだったし、櫻子はこの間は一体なんだと言わんばかりの顔をしていた。
ふたりを一挙に同じステージに立たせるために、西垣教諭はより直截的な言葉をぶつけた。
「君たちの大切な人はコトリバコの呪いで死んだんだが、その箱を誰がどのように持ち込んだか知らないか?」
「呪い? 向日葵は呪われたの?」
要領を得ない櫻子。理解を無意識に拒否しているのは彼女も同じなのかもしれなかった。
「だから今話したように、コトリバコが実在していて、古谷を含めてみんながその呪いで死んでしまったんだ。りせがその管理をしている。厳密には違うんだが……そうか。そこも話すか? もう当事者みたいなものだろう」
教諭に「なあ、りせ」と話を振られた彼女は曖昧に頷いた。
「箱は制作に関わった者の子孫が現在も保管しているから、直接管理しているのはその人たちだ。コトリバコというのは近づいただけで人に害をなすから、普段は人気のない所に安置されている。
しかしつい先日、安置されていたはずの箱が忽然と姿を消したんだ。もちろん関係者は大騒ぎで、必死になって探し回ったが見つからない。そもそも置いてあった場所が人目につかない所だったわけだからな」
「なんとか手がかりも少ないままに探していたんだが、先週末になってどうやらうちの生徒が関わっているらしいことを突き止めたんだ。そして話を訊こうとした矢先に……」
「…………」
箱。人目につかない所にあった箱。消えた箱。七森中の生徒と箱。先週末。
――箱で? あの?
櫻子の精神が慌てて思考にストップをかけようとしているのが、彼女自身よくわかった。しかし無情にも西垣教諭の話は滔々と続いていく。
「でも箱の場所はわからなかった。皆ショックが大きく、話を訊くこともままならなかった。そしてそのまま週が明けて月曜日――」
「やめて!」
千鶴が叫んだ。櫻子は現実に引き戻された。西垣教諭は沈痛な面持ちで頭を下げた。
「すまない。関わっていたことがわかっていながら救ってやることができなかった……本当にすまない。いくら謝っても謝りきれるものではないが、本当に申し訳なかった」
りせも深々と頭を垂れた。しばらく千鶴のすすり泣く声が辺りに響いた。
「箱の事情などごく一部の者以外は知りようもないことだ……だから誰が箱を持ち込んだかを知ったからと言ってその人を恨んだりしてはいけないし、こちらも責任を求めるものではない。ただ、管理する側として、原因を追究する義務はあると思っているんだ」
「何でもいいから、知っていることを話してもらえないだろうか」
千鶴は泣き止み、重い静寂が辺りを包んだ。
やがて、千鶴が訥々と話し始めた。
「箱と言えば……姉が、土曜日曜と、様子がおかしくて。なんだか、悪いものに取り憑かれたかのように、何かを調べてたんです……」
苦しそうに、生前の姉の奇行を話す千鶴。西垣教諭は黙って頷き、先を促した。
「深刻な様子で、祖母に何か訊きに行ったり、図書館で山ほど本を借りてきて……こっそり見たら、箱とか呪いとか、さっき聞いた話みたいな、私全然、また、姉さんのこと……」
終いには泣き出してしまう千鶴に、西垣教諭は温かな眼差しを向けた。
「わかった……ありがとう。お姉さんはもしかしたら、真実に迫っていて、みんなを守ろうとしたのかもしれないな」
それを聞いた千鶴はさらに泣き崩れた。
一方の櫻子は絶望的な表情をして黙りこくっていた。さすがの櫻子でも何が起こったのかをはっきりと理解した。とてもじゃないが、自分がやりましたとは言い出せる雰囲気じゃなかった。
西垣教諭とりせは、まさか櫻子が箱をあの場から持ち出した張本人であるなんてことは微塵も想定していなかった。なぜなら今、ここに生きて健在だからだ。さらに言えば向日葵が死んだ日、偶然生徒会室に来た櫻子に対して、りせは念のために少し念入りに様子を窺った。しかし櫻子からは箱の気配など微塵も感じなかったのだ。だからこそあのような訊き方をした。このような場を設けた。ふたりは当事者ではないだろうが、間接的であれ何か糸口となるような情報が得られる可能性が少しでもあるのであれば、と考えていた。
他人とは久しぶりの接触であった櫻子は皮肉にも、今までに経験したことのないほどに短時間で集中して思考せねばならない状況に追い込まれていた。しかしこれは投げ出していい思考ではない。櫻子は必死になって悩んだ。知らないと言い張ることもできる。しかし事実を知ってしまった以上、櫻子の中から呵責が完全に消え去ることはない。親友を殺したという事実、そして千鶴に対して双子の姉を殺されてしまったという事実を隠すこと。たくさん考えて、それらを抱えたままにこの先、生きながらえていくことは不可能に思えた。
櫻子の視界は滲み、手や唇は震え、喉は思うように絞れない。しかし覚悟を決めて、三度大きく深呼吸をすると、櫻子は言葉を発した。
「私です」
「……」
「……どういうことだ?」
櫻子の言葉を聞いたりせは、目を細めた。西垣教諭は断片的な言葉に一瞬問い返したが、その穏やかでない様子にはたと思い至る。
――いや、まさか……私だって触れないんだぞ?
真意を上手く呑み込めずにいると櫻子が続きを話し始めた。
「私が、みんなで箱を開けようって言ったんです。森の中で見つけたんです。気づいたら、持ち帰ってたんです」
「おい、そんなっ、……りせ」
混乱する西垣教諭の言葉をりせが腕を広げて遮った。その瞬間だった。
「お前か!! お前が姉さんを殺したんだな?!」
千鶴が激昂し、櫻子につかみかかっていた。櫻子はなすがままになっている。自分よりも正気を失った者を見て、西垣教諭は落ち着きを取り戻した。
「やめろ! 悪いのは私たちの方なんだ。さっきも言っただろう? 大室は何も知らなかったんだ!!」
教諭は謝罪を繰り返しながら、我を忘れた千鶴を取り押さえて櫻子から引き離す。
「……」
「そうだなわかった。ちょっと池田、落ち着くんだ」
目の前に櫻子が居ては千鶴がいつまでも落ち着かないだろうと考えたりせは、櫻子を連れて無理やり退室した。
世界が自分を拒絶しているような、自分が世界を拒絶しているような、死にたい気持ちで櫻子はふらふらとりせの手に引かれ歩いたが、目の前のりせが急に立ち止まったために危うく転倒しそうになる。
反射的に顔を上げた櫻子は、今最も顔を合わせたくない人を認めた。
向日葵の母がそこに立っていた。
心身ともに衰弱していた櫻子は卒倒しそうになったが、りせの手が櫻子の背中を軽く押すと、貼り付けられたかのようにその場に立ち尽くした。
向日葵の母は櫻子に近づくと、その手に小さな紙袋を渡した。そしてその由来を話した。
――突然のことだが自分たち家族は引っ越すことにした。楓もまだ小さく、いつまでも後ろ向きではいけない。引っ越しに際し、向日葵の部屋を片付けていたら机の中からそれを見つけた。それは櫻子への誕生日プレゼントだ。九月頭の日曜日にそれを買ったらしいが、渡しそびれたことを、向日葵が今際にとても悔やんでいた。今の今まで渡せなかったことを謝らせてほしい――
涙ながらに向日葵の母は話し切り、深々と頭を下げるとゆっくりと踵を返した。
櫻子はその姿が見えなくなるまで一言も発することができずに固まっていた。そして、視界から向日葵の母が消えた瞬間、その場にへたり込んだ。涙は流れていない。感情の源泉が枯渇しているかのような有様だった。
りせはそんな櫻子を見て、とても艶やかな笑みを浮かべた。
それは誰にも気づかれない、ひっそりとした笑みだった。
りせの家は由緒正しい神社の家系だ。そして男系の家系だった。お堅いしきたりに囚われているといった話ではない。家督を継いで神主となれば必然的にコトリバコと対峙することになるのだから男性であるということは神主として不可欠な資質であった。裏を返せば当然、「女性は家を継ぐことができない」ということになるのだが、それが意識されたことは、ほんの十数年前までなかったのだった。
西垣奈々はコトリバコの管理者を代々務める松本家の分家筋に生まれ幼少期より本家にはよく訪れていた。そして、自然と松本家の神社で巫女の手伝いをするようになっていた。
手伝いを始めてすぐに、松本家にりせが生まれた。奈々は実の姉のようにりせの世話をし、かわいがった。
そのうちに奈々は松本家の抱えるコトリバコの管理者という重大な役目について聞き及んだ。しかしそれは代々長男が神主を継ぎ、遂行しているものだという。それを知り、奈々は多少の納得を得た。松本家の人間から、りせに対して興味関心が薄いというような雰囲気を感じていたのだ。りせに早く弟ができて、真っ当に愛される日が来ることを願った。そしてそれまでは自分が愛を注ごうと思っていた。
小さなりせと一緒に食事をとった。小さなりせと一緒に遊んだ。風呂に入った。散歩に出かけた。小さなりせはよく泣き、よく笑い、よく話す、感情豊かな子だった。いつでも奈々の後を付いて回った。
しかしそんなりせが五歳となった年の夏、更なる不幸が彼女を襲った。りせの両親が事故で亡くなったのだ。跡取りができぬままに血が途絶えてしまったことで、松本家は騒然となった。奈々はそんな本家の騒動に嫌悪感を抱いた。彼らは両親を一度に亡くしたりせのことなど見向きもしない。皆がその家系にのしかかる百年余りの呪いにすっかり冒されているようだ。奈々は以前にも増してりせとの関わりを深めていった。彼女のことを守れるのは自分しかいないと思った。
それから数か月後のある日、唐突にりせが姿を消した。奈々がいくら行方を尋ねてもりせの祖父母は頑なに詳細を離さず、話を逸らし続けた。彼女はこれ以上は逆効果だろうと深く追及することをやめ、静かに様子を探ることを優先した。しかし彼女の存在は忽然と消えてしまって、それきりだった。
半年ほど経った春先、絶望しかけていた奈々がいつものように松本家の神社を訪れると、祖母に手を引かれたりせがそこに立っていた。そして呆然と立ち尽くす奈々にりせの祖母は今日からこの子の世話をするようにと告げ、その場を後にした。久しぶりの再会に涙を流してりせを抱きすくめる奈々。今までどこでどうしていたのかと訊ねたが、返ってきたのは触れたら壊れてしまいそうなほど弱々しい微笑みだけだった。
りせは声を失っていた。
奈々は彼女が何かとてつもない事態に巻き込まれたことを一瞬にして悟った。しかし本家の者がそのことを易々と教えてくれるはずがない。長い目で見なければならない。それでも真実はわからないかもしれない。それでも、りせのことを一任された以上は文句のつけられぬほど完璧にその任を全うするしかない。りせのことはもう誰にも渡すものかと奈々は固く決意した。
りせが就学してからの数年間、奈々はとにかく必死だった。
奈々は理系学部に入学後しばらくして教員免許取得へ舵を切った。必修と教職で朝から夜まで埋まるコマ。また、当時あれほどに活発だったりせの体力は見る影もなくなり、頻繁に体調を崩した。ただでさえ体調が不安定なのに、学校から帰ると祖父母に何時間も拘束されているらしかった。ひとりで立ち上がれないほどに疲弊したりせを同じく疲れ切った体で風呂に入れる。そして一緒の布団で泥のように眠った。
りせの身に起きたことの調査も日々の忙しい合間を縫って続けていた。彼女の世話を任されてすぐに気づいたのはその下腹部と喉についた痛々しい傷跡だ。それはどう見ても外科的な処理が施されたことを示していた。思わず奈々がそこに触れると、りせは力なく笑った。悔しさに涙が零れた。
さらに数年が経ち、奈々は無事に教員免許を取得して中学教師となっていた。就職先はりせが通うことになっている七森中だった。元々できるだけりせのそばにいようと教職を志したのだからその採用にかける熱意は凄まじかった。
りせが成長するにつれ、次第にわかってきたことがあった。
それはりせの発育が異常に遅いということだ。小学校の高学年となって周りの女子の身長がぐんぐん伸びはじめる頃にそれは顕著となった。成長曲線を描くと異常はよりはっきりと見て取れた。二次性徴時に表れる特徴的な傾斜が出てこない。発育の悪さ、下腹部の手術痕、崩しやすい体調。それらを統括して奈々は結論付けた。りせは少なくとも卵巣を不全にするような処理をなされたのではないか。言わば「去勢された」のではないか。そう考えると様々なことが納得できた。突然の両親の死。松本家の背負う役目。そして連日おこなわれる過酷な訓練――これらはすべて、女であるりせを神社の跡取りとして育て、例の箱の管理をさせようとしているのではないだろうか。奈々はそんなあまりに非道で醜悪な推測に吐き気を催した。しかしあの祖父母ならやりかねないとも思った。彼らは妄念に取り憑かれている……まるで箱の呪いを受けているかのようだ。奈々は改めてその在り様に空恐ろしいものを感じた。しかしそれも当然のことなのかもしれない。なぜなら松本家は先祖代々箱に関わっているのだから。
おおよそ尤もらしい推測が据えられたことで、次の奈々の行動方針はそれに対する対処へと移行した。まず考えたのはふたりでどこか松本家の手の届かないところに逃げるということだった。しかしすぐにそれは得策ではないと思い直した。狂気の集団である松本家の手から逃れる労力は別のところに割くべきではないか。そもそも生活それ自体に困っているわけではない。話によれば実際に箱と対峙するのも予定では十年以上先のことらしい。いよいよの場面になったらまた考えればよいことだろうと、その考えは保留にして、まずは対症療法の模索を始めることとした。
本来ならきちんとした医療機関にかかり、真っ当な治療を受けるべきなのだろうが、少し調べるとそのような治療は要するに生殖機能をなんとか取り戻そうという試みに近いものであるらしい。となれば本家が安易に診療を許すはずがない。日々繰り返される行動の制限を伴った訓練行為はそういうことをさせないためを兼ねているのかもしれなかった。
そうとなれば選択肢はそう多くない。奈々は医療機関への診療に頼らない治療法を模索した。しかし素人仕事で安易に卵胞ホルモンを入手し、摂取させてしまうことは非常に危険なことである。なぜなら、りせの普段している訓練というものが、あの箱の呪いの対処を伴うからだ。訓練は当然、りせにその影響がないことが前提にあっておこなわれるのだろう。下手に治療らしきものを施してしまうと何が起こるかわかったものではない。そもそも呪いに影響が出る厳密なラインというものがあるのかどうかもわからない。当てずっぽうな対処でりせの身を危険に晒すことは是が非にでも避けねばならなかった。
もしかしたらこれまでにもこのようなことがあって、それに対する対処が記された書物が、本家には残されているのかもしれなかった。しかし奈々にはその存在すらも憶測の域を出ない。完全に思いつきで一か八かの人体実験がなされたのかもしれない。奈々はそこまで考え、再び吐き気を覚えた。
教師は忙しい職であったが、学生の頃と比べれば幾分かマシだった。りせの体調が安定してきたことに加え、彼女の身に起こったことの推測といった雲を手でつかむかのようなこともひと段落ついたからだ。その分の時間や労力は学術書等を読むことに費やした。理科の教師であることをいいことに、しばしば学校の備品を拝借することもあった。
りせは幼少期のことをよく覚えていなかった。
物心ついたときには両親はいなかったし、奈々はずっとそばにいてくれた。体は弱かったが、毎日厳しい祖父母に家業の訓練をさせられた。例えばそれは厖大な祝詞の暗唱であったり、薄気味悪い呪具の扱いの作法を習うことだったり、近い将来必要になるらしい呪いの箱に関する知識を叩きこまれることだったりした。とりわけ苦痛だったのが自らを傷つけて得られる血液を使った呪法の練習だった。繰り返しおこなわれたそれは、尻込みをすれば折檻を受け、真っ当におこなえば当然痛みを伴い、祖父母ですら週に何度もさせることは控えたほどに精神を消耗するものだった。それがあった日は、いつも以上に奈々に甘えて精神のバランスを取った。彼女とて疲弊しているのはりせにもわかっていた。しかし、奈々はどこまでもりせのわがままを受け入れてくれた。加えて物心ついたときからの習慣は中々変えられるものでもなかった。
ある日の就寝前に、りせは布団の中で深刻な顔をした奈々に大切な話があると言われ、それを打ち明けられた。それは、りせはもう子をなすことができないだろうという内容だった。
しかし当のりせはそんなことは既になんとなくであったが理解していた。箱の呪いについて講義を受け、それを自分が扱うというのだから当然の話だった。しかし他者からその話を聞いたことで少し自分の中で腑に落ちた部分もあり、気づけば奈々の胸に顔を埋めて泣いていた。そしてやはり奈々はそんなりせを優しく包み込んでくれていた。りせは奈々さえいてくれるならそんなことは些末なことだと思った――
りせは少しの間、過去のことを思い出していた。悲劇に佇む櫻子の姿が過去の自分と重なったのかもしれない。しかし彼女もりせも生きている。そして悲痛を抱えて生き続けなければならない。りせは櫻子の行く末に自身のそれを重ねて、少しばかり嬉しいような感情が芽生えるのを感じた。自分でもどうかと思った。やはりまともな人間ではないから仕方がないのだろうかと軽口を叩きたい気分だった。
りせは櫻子の耳元に口を寄せると、櫻子にしか聞こえない肉声でこう言った。
『よかったね。壊れてて』
そして躊躇うことなくその場を後にした。
残された櫻子は空っぽな心で、ぽつりと呟いた。
「会長の声、初めて聴いた」