◆九月二日(月)- 木箱同盟
翌日、休み明け初日の朝。
「櫻子、いつまで寝てるの。今日からもう学校でしょ」
「もう少しー……」
呆れたような母の声にぼんやりとした意識で返事をした櫻子だったが、ちらりと時計を見ると慌てて跳び起きた。
「げっ! 朝ごはんとか食べてる時間ないじゃん!」
時計の針はいつも家を出る時刻の十分前を指していた。
できる限り急いで着替えて居間に向かう。母の顔を見るなり文句を言おうとしたが、そんなことをしている時間もない。
「あーもー! なんで? なんで?!」
「そういえば、今朝は目覚まし鳴ってなかったみたいよ」
「なんだと……!」
休みの間に目覚ましなどはもちろんかけたことがなかったことに加え、翌日から学校が始まるというのに何の準備もしないままにさっさと寝てしまったのだから自業自得だ。
しばし絶句する櫻子だったが、そんなことで時間を無駄にしてはいられないことに気づくと、テーブルの上に出ていた朝食からすぐに食べられそうなものを少しつまんで、自室にとって返した。その辺にあるものをぽんぽんと鞄に放り込む。急いで部屋を出ようとしたその時、ふと昨日出かけたときに持って行ったバッグが目に止まった。
「ああ、忘れてた。あれ持っていかなきゃ」
急に昨日の箱のことを思い出した櫻子は、それを鞄にしまうと今度こそ部屋を後にする。
今の今までどうして忘れていたのだろうと彼女自身不思議に思った。結局待ち合わせのときに少し見せたきりでずっとしまいこんでしまっていた。それこそ頭のどこか、箱の中にでもしまわれてしまっていたかのように。
しかし、そんなことをじっくり考えている時間はない。
「いってきまーす!」
支度を終えてようやく家を出る櫻子。玄関から一歩足を踏み出すと今日もすこぶる良い天気で、すでに汗ばむような暑さだ。そんな中であって、当然のように向日葵は待ってくれていた。
「ちょっと遅いですわよ……って、なんて頭してますの!」
「え……ああ、ちょっと寝坊しちゃって」
気にする余裕はなかったが、どうやら髪の毛がひどいことになっているらしい。
「だからってそんな……ちょっと櫻子、後ろを向きなさい」
「えー、初日から遅刻しちゃうじゃん!」
「いいから! 言うとおりになさい!」
強引な向日葵に櫻子は何やらぶつぶつ文句を言ったが、彼女はもう櫛を手に構え、準備万端といった様子。
「まったく……綺麗な髪をしてるんだからもっと……」
「だってー」
そう言いつつも珍しく簡単に大人しくなり、くるりと後ろを向いて黙って髪を梳かれている櫻子。そんな、らしくない態度を少し疑問に思った向日葵は手を休めることなく訊ねた。
「だって、なんですの?」
「その……」
彼女はちょっともごもごと何か言いかけた後、少し間を空けて答えた。
「昨日は……待たせちゃったから」
「そ……うですわね」
「…………」
沈黙が訪れる。互いに生じた顔の紅潮を黙ってやりすごした。
櫻子としては、つい昨晩少しは迷惑をかけないようにと決めたばかりだ。
一方そんなことは知る由もない向日葵は面食らってしまって、ただただ手際よく髪を梳くよりほかない。
「……できましたわよ」
「あ、ありがと」
結局その後も言葉を交わすことはなかったが、梳き終わる頃には明るい空気が漂っていた。
「ほら! 本当に遅刻してしまいますわ! 櫻子の世話をして遅刻なんてことになったら目も当てられませんもの」
「そ、そんなの向日葵が勝手に……!」
言葉の続きは呑みこみ、櫻子は素早く向日葵の手をつかんで歩きだした。
「え、ちょっと櫻子?!」
「急がないと、遅刻しちゃうんでしょ!」
昨日とは逆に、櫻子が先導して足を進める。夏も終盤戦だというのに今日も暑い日になりそうだと、櫻子は晴れ晴れとした気持ちで高い空を見やった。
休み時間になって、櫻子は例の箱を開けてみようと思い立った。授業は休み中に出ていた宿題の提出が主だったこともあって、終始箱のことで頭がいっぱいだった。
櫻子にはあの箱の中に何かすごいものが入っているのだという予感めいた確信があった。そんなこともあっていろいろと考えたところ、少なくとも教室のような他人の目がある所では開けるのは得策でないとの結論に至った。騒ぎになっては困るというわけだ。「どこか人気のない所は……」などとぶつぶつ独り言を呟きながら、楽しいことを見つけた子供特有の集中力で考えを巡らす櫻子であったが、気づけば向日葵の姿が見えない。当然のごとく彼女と開ける気でいた。
「もー、こんなときに向日葵は……」
地団太を踏む櫻子。こんなときも何も、朝から一度も向日葵に対して箱のことは話していない。ひとりで夢中になって考えていた櫻子が勝手に彼女の存在を前提にしていただけだ。
「……あれ」
体を揺らした拍子に、何かがポケットに入っていることに気がつく。
――これだ!
活性化された彼女の脳はその正体を瞬時に導き出した。素晴らしい偶然に運命的なものを感じつつ、櫻子は持ってきていた袋に箱を入れると急いで教室を飛び出した。
「あ! 向日葵ー!」
何も知らず廊下を歩いていた向日葵は大声で自分の名前を叫ばれて面食らったが、すぐにそれを咎める。
「ちょっと櫻子! そんな大声で人の名前を……」
「いいから! こっち!」
「あ、もう! 廊下を走ったら生徒会員としての示しがつきませんわ」
向日葵の文句も耳に入らない様子の櫻子は、向日葵の手をつかむとそのまま廊下を走り抜け、階段を駆け上った。
着いた場所は生徒会室。ここなら確かに人気はなさそうだ。
「……生徒会室に、何の用ですの?」
「あんまり人に見られたくなくて」
「ひ、人に見られたくないって、何をするつもりで――」
「とりあえず、誰かに見つからないうちに早く……」
櫻子は、自身とはまったく違う理由で慌てる向日葵を尻目にポケットの中を探ると、鍵を取り出して掲げた。
「じゃーん! こんなこともあろうかと!」
「それどうしたんですの?」
「登校日に鍵借りたんだけど、そのあと返すの忘れてた」
「ちょ、そんないい加減な!」
「まあまあ、こうやってまたすぐ使うことになったんだしー」
不手際を戒める向日葵に対して櫻子はお気楽に答えつつ鍵を開け、素早く中に入った。そしてなかなか入ろうとしない向日葵を「早く!」と小声で急かし、部屋の中に引き込む。
「何かの相談、にしては深刻な感じはしませんし……」
視線がふらふらと落ち着かない向日葵。櫻子は彼女のそんな様子もお構いなしで少しもったいつけてから袋の中身を取り出した。
「じゃーん! これだよこれ!」
「ああ、それは……はぁー……」
取り出された物を見て向日葵は大げさに溜息を吐いた。
櫻子に、というよりは意味深な言い回しに一瞬でも取り乱してしまった自分に対してのものであった。
「なんだよーもー。ノリ悪いなー」
「別に、そんなことないですわ。でも、どうしてわざわざ人目を避ける必要がありますの?」
「そりゃあこの箱の中身が何かすごいものだったとき、みんなで開けたんじゃ分け前が減っちゃうからでしょ」
「……分け前、ねぇ」
箱の由来を知らない向日葵には、いまいちピンとこない。古ぼけた玩具にしか見えない。櫻子のことだからどうせ自宅の物置かどこかで見つけて嬉々として持ち出したに違いない。向日葵は話を聞きつつ、少しこの状況について自分なりに推察してみた。努めて冷静になろうという意図も幾分かあった。
――あの箱は工芸品で、簡単には開けられない……幼い子が自分の宝物をしまうにはうってつけ、ですわね。
大方、幼少期に買ってもらった箱で、何かをしまったは良いものの開け方がわからなくなってしまい、当時の自分が一体何を入れたのかが気になってしょうがないとかそんなところだろうと思った。
――だとすれば、中身は小さな玩具か、もしかしたら――
「ほら、なんか入ってる」
櫻子が箱を振ると確かにトストスといったような鈍い音がした。そんな有機的な音に何年も放置された食べ物を想像してしまった向日葵は、湧き上がる悪寒に自身の肩を抱いた。
「なんだか……それ、開けない方が良いんじゃありません?」
「私が気になるんだからいいの! 向日葵も手伝ってよー」
気の進まない向日葵だったが、櫻子があんまり楽しそうにするので強く断ることもできず、渋々了承することにした。
「しょうがないですわね……じゃあ貸してみなさい」
「やったー! はいはいどうぞどうぞー」
櫻子は向日葵の色好い返事を受け、恭しく箱を差し出した。元からひとりでは埒が明かないのではないかと思っていた。
「確かどこかがずらせるんで――!」
箱を受け取った瞬間、何かぴりっとした衝撃が走った気がした。指先を見つめる向日葵に櫻子が訊ねる。
「ん、どうかした?」
「……何でもありませんわ」
違和感は確かにあったが、気のせいだと思うことにして、箱に意識を向ける。六つの面の上下すらわからない状態だ。最初は当てずっぽうで力を加えてみるしかなさそうだった。
「あ、とりあえずこう動きますわね」
「おおー! ……あ」
ようやく初手の動かし方がわかったところで、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
ちょこちょこ弄ればすぐにでも開けられるかもしれないなどと高を括っていた櫻子だったが、まったくそんなことはなく、一手動かしたきりになってしまった。
当然次の授業も上の空のままに過ごし、チャイムが鳴ると起立、礼も待ちきれずにすぐにロッカーへと向かった。休み明け初日は半日でもう以降の授業はない。時間はたっぷりとある。わくわくとした気持ちが顔どころか、思い切り行動に出てしまっていることにも気が回らない様子の櫻子は、特に辺りを警戒することもなく袋を開け、中に入っている箱を確認した。
――さて、と。向日葵は――
「なんか楽しそうだね、櫻子ちゃん」
「え!?」
周りが帰り支度をする人でごった返しているのに気づくも時すでに遅し。手に握ったままの箱を咄嗟に隠すのも怪しい。櫻子はゆっくりと声の主の方に振り返った。
「……なあんだ、あかりちゃんか」
「『なんだ』って、ヒドいよ!」
あかりがぷんすかといった風に怒る。声の主があかりだと気づき、櫻子は露骨に胸を撫で下ろした。
授業中箱のことばかり考えていた櫻子は、昼休みの件もあり、もう少し多人数で取り組まないと無理だという結論に至っていた。あかりから話しかけてくれたのはむしろちょうど良い。持ちかける手間が省けたというものだ。
「ごめんごめん。あかりちゃん、ちょっと!」
櫻子はあかりの肩に腕を回すと、身を屈めてひそひそと事情の説明を始めた――が、すぐにそれは遮られる。
「あかりちゃーん、早く部室行こー、って」
「あ、ちなつちゃん。ちょっと待ってね。今、櫻子ちゃ」
「え、なになにどうしたの何の話!?」
あからさまなひそひそ話に気づき、ちなつが勢いよく首をつっこんできた。目の色が変わり、きらきらと輝いている。
「ねぇ櫻子ちゃん。その話、ちなつちゃんにも……」
「なんなのもう! 隠さないで教えてよー!」
「うーん……まあいいや。じゃあどうせならごらく部の先輩たちにも考えてもらうことにしよっかな」
複数人を巻き込み、段々と話が大きくなってきたことで、櫻子の興味は中身がどうこうというよりもみんなで箱を開けることを楽しむということの方に傾きだした。善は急げと、早速向日葵も呼び、部室へ向かうことになった。
一行が部室に着き入口の戸を開くと、三和土に二足分の靴がある。もう京子と結衣は中にいるようだ。
「おじゃましまーす」
「失礼いたします……」
櫻子と向日葵は、それぞれに挨拶をしながら中へ入った。あかりやちなつとは同じクラスで話すことも多いが、部員ではないふたりがこの部屋に入る機会は少ない。
「お、珍しい人がいるじゃーん」
「えーと、ようこそふたりとも。何か用事?」
京子と結衣は、突然ふたりが来たことでそれぞれの反応を返した。
結衣は少し居住まいを正したが、京子は四人が部室に入ったときのまま、仰向けに寝転がって漫画を読み続けている。
「櫻子ちゃんがね、みんなに頼みたいことがあるんだって」
結衣の質問を受け、あかりがさりげなくフォローを入れた。
「なになに? なんか面白い話ー?」
話があると聞いて面白いものセンサーでも反応したのか、京子は漫画を脇に置くと、跳ね起きて身を乗り出してきた。
「なんだ……生徒会の用事じゃないのかな」
結衣は初め、生徒会のふたりが来たということで事務的な連絡を予想していたのだが、あかりの話し方からどうもそういうことではないらしいと感じ、相好を崩した。
「じゃあまあ、その辺に適当に」
結衣が座布団を用意し、ふたりに座るよう促した。「はーい」「失礼します」と部外者のふたりは答え、それぞれテーブルを囲んで座る。
「麦茶いれてきましたー」
「あ、ちなつちゃんありがとー」
「わざわざすみません吉川さん」
いつものようにちなつが麦茶を用意した。
「じゃあじゃあ、早く聞かせて?」
そして飲み物も行き渡って準備万端だろうとばかりに身を乗り出し、きらきらとした瞳でふたりに話をせがんだ。
「ほら櫻子、説明なさい」
「うるさいなー。わかってるよ」
辺りを取り巻く浮足立った雰囲気を感じてにこにこと楽しそうに和む櫻子だったが、向日葵にたしなめられてようやく要件を思い出したらしく、箱を取り出して机の上に置いた。
「えーと、この箱なんですけど……」
「なになにその古そうな箱!? 何が入ってるの?」
謎のアイテム登場にテンションの上がる京子。
一方でちなつは、その見た目からか「なんか不気味ですね」と先程とは打って変わり怯えた様子を見せた。確かにところどころ何かの貼り付いた跡のある古い箱は冷静に見ればどこか不気味である。
「えーと、その、この箱はですね」
「お宝? 宝石? なんだろ?」
なんとか説明を試みる櫻子だが、箱の出所から話そうとしてしまって上手く話が作れず、要領を得ない。加えて京子はとりあえずマイペースに煽るようなことを捲したてる。似たタイプのふたりが悪い方へと協調したような状況に、向日葵は小さく溜息を吐いた。
――まったく櫻子と歳納先輩はどうしてこう……。
向日葵がそろそろ助け船を出そうかと思いはじめたとき、先程から黙って考え込んでいた結衣が突然口を開いた。
「これ、寄木細工だよね。もしかして……開かないの?」
「はい。さすが船見先輩です。相談と言うのはそのことで」
こんな状況でも冷静に判断ができるとは。溜息を吐いていただけの自分とは大違いだと向日葵は思ったが、気を取り直してその後を受け、説明を始めてしまうことにした。
櫻子は小さく呻くと、しばらくしてから「ありがと」と小声で感謝を述べた。向日葵は説明を続けながらその少し申し訳なさそうな表情をちらりと横目で捉え、密かに満足した。
向日葵による一通りの説明が終わった。
話の中では箱は櫻子の家由来であるというニュアンスであったが、櫻子はこれ幸いとそのまま流すことにした。
「じゃあ櫻子ちゃんも何がこの中に入っているのか知らないんだ?」
「うん。でもなんか、すごいものだよ。絶対!」
あかりの疑問に、憶測に過ぎないはずの意見を断言する櫻子。しかし、櫻子の中ではその認識は疑いようのない事実にまでなっていた。
「よし! 悪いがすぐに開けさせてもらっちゃうよ!」
事情を理解したところで、京子が真っ先に手をかけた。
ちなつも興味津々な様子で手を伸ばしかけていたが、先を越された形になり、唇を尖らせる。
「またそんなこと言って……寄木細工って確か、多いやつで開けるまでに百手以上かかるんじゃなかったか?」
「結衣先輩の言うとおりですよ!」
一応突っ込む結衣。ちなつは即座に結衣を持ち上げつつ、憎まれ口を叩いた。
「まあまあ。ちなつちゃん……これでも飲んで」
あかりが麦茶を注ぎ足して、ちなつをなだめる。
「どうも!」
拗ねた様子で湯のみを受け取るちなつ。他のメンバーは京子に箱を弄らせておいて、手順をどうやって探るか話し合い始めた。
それからしばらく経って、箱を弄る京子がだらりと両腕を卓上に投げだして泣き言を言う。
「あーダメだー。これ、壊れてるんじゃないの?」
「そんなわけないだろ。何回かはちゃんと動くじゃないか」
「だってさー」
どうやら早くも京子は飽きてしまったらしい。箱をテーブルに置くと伸びをするように畳に倒れ込み、読みかけていた漫画に戻ってしまった。呆れた様子の結衣だったがこうなってしまうと何を言っても無駄だとわかっていて、静かに嘆息した。
「まったく京子先輩は飽きっぽいんですから」
ちなつは遠慮なく指摘する。「なんだよー」と少し不満げな様子の京子だったが、結衣の予想どおり完全に興味は漫画へと移ってしまったらしかった。
「じゃあさっきの話のとおりにやってみますね」
「ちなつちゃん頼んだ!」
流れで今度はちなつが名乗りを上げる。先程までの意見の出し合いについていけなかったらしい櫻子は、すっかり見学モードだ。
そんな様子を見て向日葵は再び、京子と櫻子は似ているなと思い静かに笑った。
大きな進展のないままに時刻は五時を大きく回り、陽もだいぶ傾いてきた。
「今日はもうそろそろ諦めないとだな。まさか、本当に難しかったとは……」
「そうですわね……もうそろそろ完全下校時刻ですわ」
「「えー」」
途中から漫画に熱中してしまった京子と持ち込んだくせに終始見ているだけだった櫻子が不満の声を漏らした。
あのあと、ちなつもしばらく弄ってリタイアし、もう一度いろいろと方針から考え直しているうちにタイムリミットとなってしまった。
正式な部活でなくとも、完全下校時刻は守らなければ校内に閉じ込められてしまうし、各所施錠の確認もある。みんな忘れかけているが、部室もとい茶道部室は大っぴらに使って良い所ではないのだ。
「残念だったね……でも、あかり何回か動かせたよ!」
最後に挑戦し、なんだかんだいって忍耐強く長時間弄っていたあかりが、そう報告した。
「でもこれ、手順をどうやって記録しておくんですか……?」
「う……確かに」
ふと思いついたかのようなちなつの指摘は鋭いもので、結衣は小さく唸った。何せこの寄木細工の箱は隙間等をよく見なければ上下の判別もままならない。
「じゃあ、手順は絵に描いて残しましょう! 明日は何か描く物を持ってきますね!」
「え……あの……じゃあ、お願いできるかな?」
「はい!」
ちなつの口から出た『描く』という表現に結衣は少し動じたが、ちなつには気にならないらしく「結衣先輩の為なら!」と後ろに付きそうなほどに快諾した。その横でちなつの明日という言葉を受けた京子は何か思いついたらしい顔になる。
「よーし、じゃあ当面ごらく部の活動としてこの箱の攻略を続けよう! みんなで協力して頑張るぞー!」
「いいですねー!」
「わぁいパズル、あかりパズル大好き!」
京子の宣言は完全に思いつきのものだったが、即座にちなつとあかりが賛同した。「まあ、特にすることもないしな」と今日は頭脳担当だった結衣も乗り気のようだ。
「……良かったですわね、櫻子」
「うん。やっぱみんなで何かするって楽しいなー」
櫻子は向日葵とふたりだけの秘密にしなくて良かったと思った。何より今日の向日葵は楽しそうだった。
少し話した結果、箱はそのままの状態で部室に置いておくことになり、皆鞄を携え、部室を後にした。
「じゃあまた、明日の放課後にね!」
「じゃあね。櫻子ちゃん、向日葵ちゃん」
途中でみんなと別れた櫻子と向日葵は、またいつものようにふたりきりで並んで歩く。
「櫻子は……」
「なに、向日葵?」
ぽつりと呟いた向日葵の顔を覗き込むように、櫻子は振り向いた。
「いえ、何でもありませんわ」
しかし、目が合うと向日葵は視線を外して黙ってしまった。「なんだよーもー」と櫻子は大げさにそれでいて柔らかに呟いて一歩前を歩く。何か言いづらいことを言うときの向日葵は、いつもこうなのだ。櫻子は先を促すことをしない。これは幼馴染だからこそ感じ取ることのできる空気なのかもしれなかった。
「……櫻子は、本当はもっと今日みたいに、大勢で騒いだりして、遊びたいんじゃありませんの?」
「…………」
意を決して向日葵が口にした言葉は、黄昏時のぼんやりとした空気に溶けていく。
たっぷりと時間をかけ、櫻子は答えた。
「どうしてそう思うの?」
そこにはいつもの軽薄なノリなど皆無で、そういうときの櫻子は本当にずるいといつも思う。
「どうしてって、その……」
「私はね、向日葵」
口の重い向日葵を遮った櫻子は、そこまで言うとくるりと踵で回って彼女の方を向いた。
「友達はたくさんいても、親友は向日葵しかいないんだ」
向日葵は目を合わせないままに表情を固める。
「親友というかもう姉妹みたいなものじゃん? だからさ……向日葵じゃないと、ダメなんだよ」
櫻子は、先程部室で同じことを考えて出た結論を話した。
「あれ、どうしたの? いつものお小言は?」
気恥ずかしい空気に耐えきれず、櫻子が茶化す。
「……くたばれ」
「ひど! いくら姉妹みたいだとは言ってもそれはひどい!」
「もう櫻子は本当に……もうっ!」
顔をそむけてしまった向日葵の珍しい様子を観察しながら、櫻子は考えた。
――変な向日葵。そういえば昨日もなんだかおかしかったな……あーもー、なんだか今になって恥ずかしい!
昔からたまにこういうことがあった。向日葵がいつものようにしていてくれなければ櫻子も調子が狂ってしまう。自覚はしていないが、櫻子も櫻子で相当向日葵に寄りかかっている。喧嘩するほど仲が良いとはよく言ったものだ。
少し居心地の悪い空気がふたりの間を満たした。しかし、姉妹ほどに近しいふたりの関係は家に帰り着くまでその空気から逃れることを許してはくれなかった。