たしかに正しいけど、その通りだけど。

ブログじゃないという体でまとまった文章を置いておきたい場所

くまみこのはなし11

11.

 

 慎重になればなるほどに震える体をなんとか抑え、ボクは廊下を進んだ。

 薄絹一枚を身にまとい、軽いはずの体なのに、それでも満足に動くことができない。

 どうしてこのタイミングなのだろう。

 なんでこんなときに、あの人は来たのだろう。

 そして、あったかもしれないいくつもの未来が、儚く脳裡に浮かぶ。

 外では日中から降りはじめた雨が、なおも降り続いていて、ボクの心情を煽る。

 もう何度目か知れない、そして、おそらくこれが最後になるであろう夜這いのため、ボクはまちの部屋の前まで辿り着いた。

 「まちのおへや」と書いてあるプレートに静かに触れる。

 このプレートを目印に足を置く。床のこの部分が唯一、体重をかけても軋まない箇所だ。

 風雨が時折音を立て、いつもより気を使う必要はないのかもしれない。けれどこれが最後だと思えば、輪をかけて慎重にならなければ。

 引き戸に当てるようにして耳をそばだてる。ここで実際に当ててしまうと引き戸が揺れて意外に大きな音がしてしまうので気をつける。

 まちの寝入りは基本的にはよかったが、今日はいつもとは違う。気疲れして早く眠りに落ちているかもしれないし、その逆もあるかもしれない。それでも、もう今日を逃せば――

 ボクは念じるように目をつむり、引き戸に手を掛けた。

 敷居の溝には滑石を塗っていて、力加減の下手なボクでもほとんど無音で開閉できる。

 部屋の中心に敷かれた布団に、愛しいその姿を認めた。

 ぼやける視界。しかし鼻をすすることもできない。

 室内に一歩足を踏み入れると、その寝息も耳に届く。規則正しく、大きめの寝息。

 自身の呼吸が浅くなる。しゃくり上げてしまいそうになるところを苦労して抑えながらも、体重の移動、足の置きどころ、幾度も繰り返してきた決まった動作は自然と体に染みついている。

 そしてついに、いつものように横向きに寝ているまちのすぐ傍らに着いた。

 その変わらぬ、狂おしい感情をもたらす甘美な毒のような寝姿が、手を伸ばせば触れられるほどの眼前に、ただただ存在している。その奇跡的な状況、もう数え切れないほどに経験してきたこと、そのひとつひとつのものを合わせたよりもさらに大きな感情が去来し、堰を切ったように涙があふれ出した。

 息が乱れる。まちが起きてしまう。

 見られてしまう。

 おぞましい、この姿を。おぞましい、この行為を。

 もう制御できない情欲が本当の本当に最悪の事態をもたらしてしまうその前に。と、ボクは身を屈めてまちの耳元に囁いた。

「ライライ――モコリャイライケモコ――」

 死んだように眠れ。というアイヌ語だった。少し嗚咽混じりでも、彼女に届いただろうか。

 唱え切ってしまった安心感から、いよいよ我慢ができなくなったボクは、安らかに寝息を立てるまちの小さな体に縋ると、顔をうずめて声を上げて泣いた。そして壊してしまうほど強く彼女をかき抱いた。

 

   *  *  *

 

「赦して……まち……」

 うわ言のように何度も繰り返す。

 それ以外にかけるべき言葉が何もない。

 行儀よく掛けられていたタオルケットは今、半分に畳まれて彼女の脇に避けてあった。

 興奮のあまり震える手でパジャマの裾をまくっていく。ひっそりと窪んだ臍にすら官能を感じてしまう。えも言われぬ曲線を描く脇腹からおなかのラインをじっと見つめる。脱力した腹部が見せるぷくりとした内臓の偏りが煽情的だ。

 だってまちが悪い。まちがあんな風に誘うから。

 そしてついにその乳房が眼前に露わとなった。確かにいつも風呂で見ている。しかしその存在は、今のこのシチュエーションではまったく違った趣でそこにある。横向きに寝ていることで普段はほとんど目立たない慎ましやかな双丘が、か細い腕と体の間に息づいている。

 ボクはすやすやと眠るまちの横顔と、その下から覗く可憐な横乳を見比べた。ぞわりと鳥肌が立ち、眩暈をおぼえるほどに愛らしい。

 一度息を整えると、今度は指を布団と体の間に差し入れるようにして右の乳房を極々弱い力でゆっくりと掬い上げた。わずかにたわむ柔肉。まさにとろけるような軟らかさだ。

 強く指を食い込ませてしまうとすぐに肋骨に当たってしまう。それではその未熟さを湛えた最高の感触を十分に味わうことができない。

 しばらくそれを堪能し、次にその薄く色づく先端の縁にぴたりと指をくっつけた。外縁とは違った弾力の少ない軟らかさを感じる。何度かつつくようにして愉しんだ後、人差し指を使って円を描くようにゆっくりと指先を滑らせていく。やがて手を増やして左右同時に刺激を与える。まちの呼吸は規則正しく続いている。

 十分に自らを焦らしてから、両手の指先がようやくその頂点に触れる。

 与え続けられていた刺激に対し、はっきりと体は反応していた。

「うぅ……まち……」

 喘ぐわけでも眉根を寄せるわけでもなく、平然とした様子に見えた彼女の、機械的なものであるとはいえ、その体に顕著に表れた変化にボクは自分の行為の淫らさを突き付けられるのだ。

 弱っているはずのボクだったが、かつてないほどに熱く昂っていることを感じる。

 これで最後と思うと時間をかけずにはいられなかったが、あまりこの状態を続けてはまちの体を冷やしてしまう。半ば朦朧としている頭でボクは彼女を案じた。

 まくり上げていた服を一度戻し、丁寧にボタンを外してはだけさせておく。それから彼女の肩と膝に手を掛けて膝を立てた仰向けの体勢に変えた。

 頭を撫でながら袖から腕を抜き、続けて肌着も頭から抜く。上半身裸の状態にさせられ、あどけない表情で眠るまち。その姿を目に焼き付けてから、横に避けていたタオルケットをその上半身に掛けた。

 交感神経の過剰な興奮によって震えて冷える手に息を吹きかけて温める。

 今日は特別だと自分に言い聞かせる。

 これで最後なんだと思うと、胸が詰まり吐きそうにすらなる。

 ボクは意を決してまちのウエストにかかるゴムの縁に両手を掛けて、ゆっくりと引き下ろしはじめた。

 徐々に露わになる下腹部、腰骨の陰影、下着の縁と小さなリボン――クロッチ部分にかかろうかというところで一度手応えが固くなる。仙骨の膨らみに引っかかっているのだ。ボクは慣れた手付きでまちの膝を揃えると、胸の方に押し上げて腰を浮かせて、するりとウエスト部分を膝の上まで下ろし、足先から抜き去った。体温の残るパジャマをぎゅっと抱きしめてから置き、意識的にゆっくりと息を吐きながらショーツに手を掛けた。そして躊躇せずにそれをするすると脱がしてしまう。ついに一糸まとわぬ姿となったまちが、無防備にその肢体を晒している――

 ここにきて、まちへの罪悪感が頭をもたげてきた。しかしもう引き返すことはできない。このまま明日を迎えるわけにはいかない。

 ボクは覚悟を決めた。途端に体の震えが止む。興奮しきった体はそのままに、厳かな気持ちとなる。まちの大切な瞬間に立ち会うのだ。そうならざるを得ない。

 まちの足元に跪き、恭しく一礼をした。

 そして汗でしっとりと張り付いていた自らの着衣をすべて取り去ると、まずはいつものように彼女を強く抱きしめ、全身でその感触を覚え込むようにする。

「ああ、まち、まち――」

 うわ言のようにその名を呼ぶ。まちは答えてくれないが、ボクは勝手に際限なく盛っていく。

 ごくり、と生唾を呑み込むと、ボクはついにまちの唇を奪った。これまでは決して踏み入れなかった領域に突入していく。これ以上何も考えることができない。ボクなりの倫理観が粉々になっていった。

 まちの唇は夢のように甘かった。

 夢中で貪るように唇を重ねていく。呼吸が苦しい。

 そして同時に彼女の胸を揉みしだく。わずかに膨張し主張する先端を手のひらで転がす。そこにも口付けをしていく。舌や唇でその弾力を味わう。胸が苦しい。心臓が早鐘を打っている。

 乳房に留まらず全身を隈なく愛撫していく。キスをする。舌でねぶる。揉む、弾く。彼女の体で触れたことのない場所があることが我慢ならない気持ちだった。

 そして爪先に口付けをしたところで、残すは行儀よく閉じられた脚の間のみとなった。

 足首を優しく掴んだ。わずかに踵が浮く。両脚を同時にゆっくりと開いていく。肉付きの薄い腿の先にある、まだ誰の目にも触れていないはずの秘所がわずかに開き、その隙間から淡い色の粘膜を覗かせている――それを目にした瞬間、元々はち切れんばかりに充血していたボクの股間のモノがさらに引き攣るほどに張り詰めたのを感じた。

 子供の親指ほどもあって禍々しく凝るそれがボクは嫌いだった。しかし今、このときばかりはその僥倖に感謝しなければならない。

 まちの脚の内側を、付け根に向かって徐々に触れながら這い上がる。そしてボクと違って慎ましく可憐な性器に口付けをすると、しとどに濡らしていく。

 そしてボクは股ぐらの肥大した肉芽に手を添えると、まちの中にゆっくりと押し込んでいった。

「あっ、ああっ!」

 敏感な部分が柔らかな粘膜に包まれる感覚はこれまでに経験したことがないものだった。何よりまちのそこはとても熱く感じられた。そして力が抜けているはずで、ましてや成人男性と比べては比較にならない程に小さいボクのそれでさえ、きつく感じるほどの狭さだった。

「あああっ、きもちいよぉ、ずるいよぉ」

 ボクは感嘆の声を漏らしつつ、いつの間にか腿の中程にまで垂れてしまうほどになっていた自分の潤みを指に取ると、それを潤滑剤にして一層腰の動きを速めていく。

 細かく腰を打ちつける音がぐじゅぐじゅと部屋に響いている。

 時折腰を左右に揺らし、まちの中の感触を愉しむ。

 そして行為は次第にエスカレートしていった。

 まちの体を持ち上げると、人形のように扱った。膣内に飽き足らず、全身を使って快感を得た。特にその今日までキスも知らなかったはずの口で達したときの背徳感はこの上なかった。

 体力の限界を迎えようとしていたボクは、ここで一旦、まちの体を綺麗に拭き清めた。

 そして最後にもう一度彼女を抱くと、いよいよあふれ出る涙を止めることができなくなる。

 まちの初めてを奪うものがボクのモノであったなら。そんな想像を何度しただろう。

 それが現実となった今、もう思い残すことはなかった。

 

 

つづく

くまみこのはなし10

10.

 

「ねえよしおくん! そろそろ起きて!」

「んあ……なんだ送れって?」

 学校かどこかへの送迎を頼まれたと寝ぼけているよしおくんを、激しく揺すり続ける。

 いつも出勤ぎりぎりまで寝ているような彼にして、こんなに寝起きが悪いことが今までにあっただろうか。

「ち、が、う! ねぇ、もうお昼よ? ナツがどこに行ったか知らない?!」

 これだけぐっすり寝ているからには出ていったことには気付いていないのだろうが、昨晩一緒にいたよしおくんなら何かを聞いているかもしれない。

「んー……いてぇ……なんだ、ナツ? あれ」

 頭を振りながら、もぞもぞとした動きでよしおくんはようやく体を起こした。

「二日酔いか……? あれ、オレ昨日飲んだかな……よく憶えてないや」

「ちょっと! しっかりしてよしおくん!」

 しゃっきりしない彼の背中を何度か叩く。「痛い痛い! 起きたよ!」と言うのでそろそろ勘弁しておこう。

「ナツ……昨日どうしたかな。って、ここナツの部屋か!」

 ようやく状況を把握するよしおくん。

 私は呆れてあからさまな溜息を吐いた。

「ナツと一晩一緒に過ごしてよく無事だったわね。私だって寝るときは大抵別々よ?」

「いや、だからきっと別々に寝てたんだよ!」

 何故かムキになって反論するよしおくん。「冗談よ」と返すと、ふてくされたように黙った。

 今日のよしおくんは寝起きだけでなく機嫌まで悪いらしい。

「そうだ、山村さんはどうしたんだ?」

「山村さんとはあのあと、よしおくんちに泊めてもらって、一緒に女子トークしたの」

 よしおくんの問いかけに、少し得意気に返答してしまう私。会って間もない都会の人と仲良く会話できたことを誰かに報告したい、誇らしい気持ちがあった。

「そうか、それはよかった。それで今はどうしてるんだ?」

「私は先に起きて、神社のことをひととおりやってたんだけど、ナツが来ないままみんな終わっちゃって、それで様子を見にうちに帰ってきてナツのことを探したんだけどいないの。部屋にはよしおくんが寝てるし、起きないし……」

「ナツのことじゃなくて、山村さんのことなんだけど」

「話はここで終わらなくて! 仕方がないからよしおくんちにまた戻ってみたら、今度は山村さんがひとりで出かけちゃってていないの。まあでも、冷静に考えてナツのことは訊けないからそれでよかったんだけど――」

 話していくうちに、よしおくんの表情が見る見る真剣なものに変わっていく。

 そんな様子を見て、最後の方は尻すぼみとなった私に、彼は静かに芯の通った声で言った。

「それは、どのくらい前のことだ?」

「……今が11時半くらいだから……2時間くらい?」

「それから会ってないのか?」

「……うん。うちでよしおくんが起きてくるのを待ってたから――」

 そこまで聞いて、彼は素早く立ち上がると、土間まで飛んでいって靴を履くのももどかしく、表に飛び出した――ところで、立ち尽くした。

「どうし――」

「ナツーー!! しっかりしろ!」

 言葉をかける間もなく、よしおくんは入口の外に姿を消した。

 慌ててそれを追いかけ、裸足のままに表に飛び出す。

 入口のすぐそばに、ナツが倒れ、よしおくんが蹲り顔を寄せている。その隣にはほのちゃんが立っていた。

 ナツの体は全体的に塗れそぼり、ところどころ毛の色が濃くなっている。

 一瞬、ケガをしているのかと思ったが、よく見ればそれは泥が付いているだけだった。けれど、意識を失っているのか、ピクリとも動かない。

「え……よしおくん……嘘、よね? ナツ、大丈夫よね? ほのちゃん、ナツは……」

「近くで倒れていたのを見つけ、送り届けたのだ……ただ私は急ぎの用がある。巫女よ、あとは頼んだぞ」

 そう言うと、ほのちゃんは足早に去っていく。ナツはまだ動かない。怖くて足がすくむ。

 それでも、何かに憑かれたかのような足取りで、1歩ずつ、横たわるナツに近づいていく。

「ナツ……?」

「大丈夫だ。息はある――体調が悪いって、昨日も言っていたんだ」

 よしおくんの言葉が耳を通り抜けていく。

 どうしても確かめたくて、私もしゃがみ込み、半開きとなっているナツの口元に耳を寄せた。

 一瞬を、ひどく長く感じる。

――すぅ。

 わずかに息の音を感じた瞬間、ナツの体に縋り付いた。

 涙がとめどなく溢れてくる。

 するとよしおくんは「ナツが苦しいだろ」と言って私の肩を掴み、わずかにナツの体から離した。それを振りほどこうとしていると、ナツがゆっくりと目を開けた。慌てて縋ろうとするが、やはりよしおくんに押し留められる。必死な形相になっているであろう私の顔を見たナツは一言、「少しだけ、横にならせて」と言うと、そのまま意識を失った。

 もう私は心の抑えが利かなくなっていた。半狂乱となりナツに飛びかからんばかりの私。その腕をよしおくんは乱暴に掴んだ。そしてそのまま家の中に引きずり込まれる。私は悪態を吐き、いつものように彼に殴りかかろうとしたが、大人の男の力で覆い被さるようにして押さえ込まれてしまった。その事実にショックで体が硬直する。

「そうしているだけじゃ、ナツは悪くなるばかりだ!」

 そしてさらに叩きつけるように怒鳴られた。

「お前であろうと、頑張っているナツの邪魔をしようとするのなら、容赦しないぞ」

 零下の声色でそう告げられると、ナツを失うものとは別種の恐怖がそれを上塗りしていく。

 やがて完全に体の力が抜けた私を見て、ようやくよしおくんは力を緩めた。

 それから身を離すと、深く頭を下げられた。

「まち、本当にすまない。乱暴なことをした」

 言いながら立ち上がり、室内に向かい歩きだしながらさらに続ける。

「でも、手伝えないならせめて、大人しくしていてくれ」

 糸が切れた人形のように動けないでいる私を置いて、よしおくんは手早くタオルを探しだしてくると、ナツの方へ取って返す。

 まずは濡れた体を乾かして体温を下げないようにしなければならない――当然のことだった。

 

   *  *  *

 

 村に医者はいない。

 つまりナツに医学的な処置ができる人はどこにもいないということだ。

 ナツはこれまで大きな病気やケガをしてこなかったので気付かなかったが、ナツ自身そのことをよく肝に銘じていたためであろう。

 しばらく表で倒れていたナツだったが、30分もしないうちに再び目覚めた。

 そしてなんとか起き上がると、土間まで入り、そこでしばらく休憩をして、それでまた起き上がる――そうやって、少しずつ少しずつ、時間をかけて自分の部屋に戻った。

 よしおくんは無理に動くなと言っていたが、ナツは落ち着かないからと聞かなかった。

 私は先程のショックで、未だに言葉を発せていない。接近を禁じられたようで、ナツともよしおくんとも微妙に距離をあけ、状況を見守ることしかできないでいた。

 ナツが部屋に戻ってから、よしおくんはナツと言葉少なにいくらか会話をしているようだった。

 私は部屋の外で待っている。

 自分が無様な体を晒し、とっさにああするしかなかったことを頭では理解していたが、よしおくんにすっかり怯えていた。

 やがてよしおくんはナツの部屋から出てくる。

 びくり、と私は身を竦めた。

「あらためて、申し訳なかったな……まち」

 優しく話しかけられたが、彼の顔を見ることができない。

「赦してくれなくても、仕方がない。でも、わかってくれ……」

「……」

 言葉が出てこない。

 黙り込む私に、しばらく様子を見てくれていたよしおくんだったが、ゆっくりとした動作で私の目の前にタオルと桶を差し出した。

「お湯を沸かして、タオルを浸す。タオルは固く絞って、ナツの泥を落としてあげる。できるな?」

 そう言うと、彼は私の足元に差し出したものを置いて、距離を取った。

 よしおくんが離れたことで、金縛りから解かれたように体が動くようになる。

 そちらの方を見ないようにしながら、置かれたものを拾った。

「頼んだぞ」

 背後から声がして、よしおくんはうちから出ていった。

 体の力が抜け、倒れ込みそうになったが、壁に手をついてなんとかこらえる。

 私は、指示された内容以外何も考えないようにしながら、人形のようにそれをこなしはじめた。

 

 

つづく

くまみこのはなし9

9.

 

 翌朝、私が目覚めると、隣の布団で寝ていたはずのまちさんはすでにいなくなっていた。

 ゆっくりとした動作で携帯を確認すると、時刻は8時を過ぎたところだった。

 昨晩はまちさんからいろいろな話を聞くことができた。さすがに警戒されている部分もあったようで、終始どこか奥歯に物が挟まったような物言いであったが、元々の引っ込み思案さ故か、普通の雑談であれ似たようなものだった気もする。

 身支度を整えながら昨日村を見て回ったことや良夫さんとまちさんから聞き取るなどして得られた事実を反芻する。一番気になったのはアイヌ神話式神であるカッパ追い祭りでも山の女神に捧げる男根信奉の祠でもイナウに酷似した御幣でもなく、『おしおき穴』なるものの存在だ。

 詳しくは不明であるが、悪さをした子供を一晩「閉じ込める」ことができる構造の穴らしい。

 これは神域の中にあり、かつては別の用途があった可能性が極めて高い。

アイヌで熊といえば熊送り――」

 熊送りにおいて熊はしばらくの間、村で飼われるという。

 大きくなった熊は当然、檻で飼わなければならない。

 

   *  *  *

 

 良夫さんのお母様から朝食まで御馳走になった。どうも彼は昨夜出かけてから帰っていないらしい。これからの行程は付きまとわれてしまうと困るので好都合だった。

 昨日村を回っているときに何度かまちさんの祖母だというフチという名を耳にした。当然その大刀自が村の暗部を司る黒幕であろうが、彼女は今、不在にしているという。この機を逃す手はない。

 良夫さんのお母様に礼を言い、雨宿宅を後にする。「よしおに会ったらよろしくね」と言われたが、できれば遠慮願いたく、曖昧な笑顔を返すに留めた。

 

   *  *  *

 

 人気のない林道からけもの道に逸れた。それからしばらく下り、小さな沢を見つけると、方向に気をつけながらその淵を下っていく。『おしおき穴』のある神域は神社の奥に存在するはすだ。

 まちさんに聞いたところによれば、彼女の家は熊出神社のさらに先、丸太橋のかかった比較的大きな沢を隔てた向こうにあるという。その橋はたびたび流されていて、そうなれば新しい橋が架けられるまで孤立してしまうという話だった。

 彼女の家は、神域の入口にそれを守るように建てられているのだろう。そして、一般の村人が神域の深くまで立ち入ることはあまり考えられない。つまり、目的地は彼女の家の近く、沢を上った先にある丸太橋を目印に、近辺を探せばよいことになる。道なき道を行くことになるが、ある程度は仕方がない。

 慣れない移動に息が上がりはじめるが、知識欲でそれに耐えながら先を進む。

 足元に附子の花が集まっている。気を紛らすように、その可憐で危険な紫の花弁をじっと見つめて黙々と進んでいく。

 闖入者を拒むよう進むごとに厳しくなる原野に対し、逆に精神は高揚していった。

 それは、道を逸れて30分ほど歩いた頃だった。

 木立の先に広場のように抜けて平たく見える所がある。少し逡巡したが、人為的に拓かれたと思しきその場所に妙に惹かれ、沢を外れていくと――そこには、何かの畑があった。

 整然と並んだ畝に低く這う植物は、なんの実も付けていない。しかし、一面に同種の植物が植えられているために、これが栽培されているものだとわかった。

 こんな山奥に人目を避けるようにして栽培されている植物がなんであるか気になった。しかもよく考えればこちらは神域の山側。つまり神域内にある畑ということになる。

 ちなみに麻のような葉ではない。もっと背が低くて葉は小さく、茎が弦状に伸びている。マメ科だろうか。

 じっくり調べたい気持ちもあったがここが畑である以上、作業のために村人が表れる可能性は大いにあるわけだ。計画が途中で頓挫することを恐れた私は、一応その植物を採取すると、足早に元来たルートを戻っていった。

 

   *  *  *

 

 何度目か、地図を確認したところで沢は大きく斜面を回り込み、突然視界が開けた。

 今まで頼りに歩いていた沢は比較的幅員の広い流れに注ぎ込んでいる。沢というより川である。

 歩き続けてすっかり体力を消耗していた私は、その水面近くに腰を下ろし、一度休憩を取ろうと思った。その川を少し上ればその周辺が目的地のはずだった。

 木立から一歩踏み出す。陽の光に一瞬眩しさをおぼえて目を細めた。

 視界がはっきりとすると、向こう岸の少し上流、木立から少し離れた位置に熊が直立していることに気付いた。一瞬、ナツさんかな? と思ったが、考え直す。

 ここは熊出村。本物の熊が出没することだってありそうなものだ。本物の熊であれば襲われかねない。

 しかしさらによく考えれば、もしそれが本当にナツさんったとしても、この場にいることを悟られてはならない。私は聖域を侵しているのだ。

 そう結論が出た頃、ナツさんと思しきその熊は、どこか苦しそうに屈んで、四足でよろよろと歩くと水際の平らな岩の上に乗り、力なく尻もちをついた。

 離れるなら今しかない。そう思ったが、この位置関係だと今は視界に入っているかも知れず、下手に動くことができない。

 そうこうしているうちに、事態は悪い方へと転がっていった。

 その熊の腕はだらりと垂れ下がり、小刻みに揺れるような奇怪な動きをしはじめたのだ。

 その動きに、ひとつの憶測が頭をよぎった。

 やはりあれはナツさんであり、あろうことか、人目がないと思いその着ぐるみを脱いで休憩でもとろうとしているのではあるまいか。

 いよいよまずいと思ったが、動向を伺わないことには逃げ出す機会も掴めないため、目を離すことはできない。よもや、声をかけやめさせることもできない。

 八方ふさがりだ。静観するしかない。

 そして、ついに決定的な光景が繰り広げられる。

 熊の首があらぬ方向に倒れた。

 両腕が肩口からひしゃげた。

 背中から、もぞりと黒い頭が飛び出した。

 熊の形をしていたものが畳まれるように前傾する。

 中に入っていたものが、不安定に揺れながらすらりと立ち上がる。

 その巨躯は膚が異常なほど白く、それでいて筋肉質で、それでもその腰まで届こうかという黒髪がまとわりついた薄い乳房、淡い色の乳頭、鬱蒼とした茂み、長く逞しい脚――

――あれは、なんだ?

 想像していたものと大きく異なる何かが表れ、先程までの浮ついた気持ちが一転する。

 後頭部が痺れるような感覚に襲われる。ぎっちり詰まった空気に押さえつけられるような感じで、意識的でなければ呼吸もままならない。

 すぐに立ち去ればよかったという後悔だけが胸に押し寄せる。

 目の前の光景が、その先に立つそれが、ひどく現実感のないもののように思えてくる。

 徐々に視界が白けていく感覚。

 それは身を乗り出すようにすると、川の流れに吸い込まれていく。

 その刹那、前のめるそれの、髪の間から覗く瞳と目が合い、それが驚いたように見開かれた。

 一連のシーンが、まるでスローモーションのように感じられたとき、脇腹から大きな衝撃を受け、体の上下がわからなくなった。

 意識を失う間際、黒い獣の唸りを聞いた気がした。

 

 

つづく

くまみこのはなし8

8.

 

「え! まち帰って来ないの?!」

 うちに来るなり良夫はボクに「今日、まちはオレのうちに泊まるから」と言い放った。

「いい機会じゃんかー。いろいろな人と関わった方が、まちのためになるって」

「でもさー。今日とても気を張っていたみたいで、家に帰って来てからずっとボクにべったりだったんだよ? いつにも増して……」

 そう。過剰に甘えるのはストレスを感じているサインだ。

 しかしよしおはボクが反対することなど想定済みのようで、すぐに言い返した。

「それでも実際、ちゃんと自分からうちに来たじゃないかー!」

「それは――」

 そうなのだ。よしおから連絡が来た際、ボクがそのまま断ってしまおうとしたところ、近くにいたまちが横から彼のメッセージを見て、すぐに「行く」と宣言したのだった。

 成長したと見るべきか。いや、何か……そういえばあのとき――

「許してやれよナツ。なんかふたり、去り際に約束してたろ?」

「……やっぱりよしおもそう思う?」

 よしおは気付いていたらしい。あのときのボクは『ナッちゃん』を演じることにいっぱいいっぱいになってしまっていたのだが、今思い返すとそんなことがあった気がする。

「まああの人は大丈夫だよ。むしろ物腰柔らかで、ひー子なんかと比べたらハードルは随分低いんじゃないか? まちもいろんな人と交流した方が――」

 よしおがひびきの名前を出したので思い出した。

「そういえばよしお! あの人!」

「そのことを謝りに来たんだ。悪かったよ……強引に決めちゃったのは」

 謝意を示すよしおだったが、ボクとしても意見を伝えなければならない。

「会って間もない女性に対してのデリカシーもそうだけどさ! 山村さん、だったっけ? よそ者の女に熱を入れすぎじゃない?」

「ナツおまえ、彼女のことを悪く言うなよな!」

 うら若き女性を一日連れ回しただけに飽き足らず、家にまで泊めるとは恐れ入る。

「――まったく、ひびきが知ったら」

「ん? なんて?」

 ――後で荒れるだろうなあ。などと思っていたが、口に出してしまっていたようだ。

 慌ててごまかしたが、まったく悪びれるそぶりのないよしおに呆れていると、急に一瞬、気が遠くなった。

「お、おい! どうしたナツ! しっかりしろ!」

 へたり込んだボクに、よしおは慌てて声をかける。

「だ、大丈夫……ちょっとめまいがしただけ」

「水でも持ってくるか?」

 精一杯心配してくれるよしおだが、こんなときでもボクのことを助け起こしたりはしない。

 ありがたいことだった。

「自分でするよ……」

「いや、しばらく安静にしていた方がいい」

「……そうする」

 水を取ってくるから、とよしおは素早く部屋から出ていくと、辺りに静寂が訪れる。

まちも心配だけど、よしおのことも心配だ。村にしか興味がないことが裏目に出ている。

 一歩間違えばあの女に籠絡されるんじゃなかろうか。

 よしおにはひびきとくっついてほしいんだけど。

 そしてあわよくばフチの死後はまちと暮らしてほしい。なんて。

 

   *  *  *

 

「やっぱりナツも疲れてたんだな」

 心配そうなよしおが甲斐甲斐しくそばに付いている。

 体調の悪さ故か、弱気になっているのが自分でもわかった。

「そうかも。日中からちょっと……体調が変で。でも夏バテかも」

「…………薬、ちゃんと飲んでるのか?」

 間を空けて、真剣な顔のよしおが尋ねた。

「――のんでるよー」

 一瞬詰まってしまったが、できるだけこともなげに答える。

 それくらいではよしおを安心させることはできず、話は終わらない。

「最近はゆるキャラ関係で遠出も多くなってるし、飲み忘れたり――」

「してないよ。――何年のんでると思ってるの?」

 いじわるを言ってみる。

「そりゃ、そうかもだけど……心配だよ」

「ありがとうよしお。でももしかしたら、ちょっと思ったより早いけど――ガタが来はじめてるのかも。やっぱり最近がんばりすぎたからかな」

 最初は軽口のつもりだったが、気持ちの弱りか、どんどんと弱音が紡がれていく。

「冗談でもそういうことは言うな」

「……ごめん」

 重苦しい空気が立ち込める。

 自分のことのように苦しそうなよしおの姿を見ていられなくなり、少しだけ無理をする。

「よしお優しいからさ、いつもこんな話になっちゃってごめんね! もう大丈夫!」

 よし、と起き上がると、彼の持って来てくれた水を一気に飲み干す。

「おいおい、急にそんなに動くなよ」

「平気平気! 病は気からってね!」

 足元が少しだけおぼつかないが、なんとか動ける。

 体のことは考えないようにして、先程の話に意識を戻そう。

 よしおの女性関係――この間、海に行った際、同僚の保田さんとひびきとで両手に花といった事態になったときも確か、考えるのをやめてその場から逃げていたっけ。

「ああ、ボクも役場のあの人みたいに、イメージチェンジしたら弱気にならなくなるかな」

 あの大胆な水着姿を思い出す。コスチュームで別人格が出るという彼女。

 よしおは何を思い出しているのか少しこわばった顔で「保田さんか」と呟く。まさにグラマラスな眼鏡美女といった風だったが、彼にとってはあまりよい記憶ではないらしい。

 でもあの変わりようは、『ナッちゃん』としての自分に未だ違和感が拭えないボクにとっては参考になるかもしれない。無理に演じるのではなく、スイッチを入れるみたいにすれば。

 しかしよしおの考えは斜め上を行っていた。

「よし、じゃあナツも脱ぐか」

「いや、脱がないよ!」

「いややっぱりダメだナツ……脱ぐのはオレの前だけにしてくれ……」

「よしおの前でも脱がないよ!」

「残念」

「まったく、ほのかみたいなこと言わないでよね」

 そう、ほのかといいスカイプスリランカ人といい、どうしてそういうことを……。

 よしおはようやく安心したのか、少し声を出して笑うと「ふられちゃったかー」とかなんとか言いながら、頭をかいていた。

 よしおが安心したことで、ボクも安心した。椅子に深々と腰かける。

 もう少し安静にしていなければならなそうだった。

 

 

つづく

くまみこのはなし7

7.

 

 しばらく歓談していたが、不意に山村さんが深刻そうな顔で尋ねた。

「あ、そうだ、この村って……泊まる所があったりしますか? 調べても出てこなくて」

「残念ながらないですね」

 本当に残念ながら。と、思いつつ、これはまたひとつ課題が見つかったと心にメモする。

「そうですか……そうしたら町の方に宿を探してみようと思うのですが……心当たりがあれば」

「うちに泊まったらいいですよ!」

 山村さんの言葉に即座に持ちかける。案内する道すがらにぼんやりと思っていたことだった。

 途端、ナツが「あのさ、よしお……」と苦言を呈する。

「ちょっといきなりそんなことを言われても、山村さんも困っちゃうよ」

「そ、そうよよしおくん!」

 非難の声多数だが、前に東京の親子がこの村に滞在したときにも、うちの庭にテントを張っていた。同じことではないか。

「でもなー……観光課にいながら村に宿がないなんて、そんな当たり前のことに気付かなかったのはオレの落ち度だし……」

 合理的な結論が出てしまっている以上、自分の中でもそれを覆すのは困難だった。

 それに、ふたりは騒いでいるが、本人の意思が一番大切だ。

「山村さんはどうですか? うち、上の兄さんが家を出てるんで、部屋は空いてるんですよ」

「……いいんですか?」

「決まりですね!」

 山村さんが予想に反して乗り気なのでナツもまちも言葉が出ないようだ。

「というわけで、無事に泊まる所も決まったところで、まだもう少し時間もありますので、案内の続き、行っちゃいますか!」

 呆気にとられているふたりを尻目に話をどんどん進めてしまう。山村さんが乗ってきてくれてよかった。さて、と山村さんと共に腰を上げ、身支度を整えていく。

「じゃあなふたりとも、ありがとなー」

「本当に、ありがとうございました!」

「は、はい……」

 なんとかといった感じで答えるまちと、黙って頭を下げるナツ。

 ふたりは何やら煮え切れぬ雰囲気を醸し出していたが、山村さんの貴重な時間を奪ってしまうことは申し訳ない。あとでフォローは入れておこう。

 拝殿から出る際、山村さんは「あ、ちょっと待ってください」と言って小走りでふたりのところに一度戻っていった。そして、何やらまちに耳打ちしている。

 まちは神妙な面持ちで小さく頷いていた。

 

   *  *  *

 

 山間のこの村では陽が落ちるのも早い。

 最近は顕著に陽が短くなっていて、冬が迫ることへのちょっとした焦燥感が募る時期だ。

「今日は本当にお世話になりました」

 自宅に至る道を走る車中、助手席の山村さんは礼を言った。

「いえいえこちらこそ、わざわざこの村まで来ていただいて……今もまだ感激してますよ!」

「私もです。本当に興味深い所で……来てよかったです」

 もし、希望的観測ながらこれから観光客が増えていくとすれば、そもそもこんなに時間を割いて案内はできないだろうし、おそらくこんなにこの村のことをわかってくれる、自分と気の合うような人はめったに現れないだろう。

 だから今のそれは本当に心からの言葉である。

 来てくれたことにもそうだが、その山村さんという存在に出会えた僥倖に感激していた。

 幸せな気持ちを抱きながら他愛もない会話をする。時々村のことを話す。それに対しての反応も、これまでオレが接してきた多くの人のそれとは全然違っていた。

「でも山村さん、本当にすごいですよね……なんというか、知識量が。学生時代、研究でもされてたんですか?」

「いえ、完全に趣味ですね……今はほら、ネットで調べればいろいろと出てきますから」

 謙遜する山村さんだが、調べるだけでなくこうやって実地に足を運ぶのだから大したものだ。

「今日いろいろと話しましたけど、ここまでちゃんとしたやり取りができたの初めてなんですよ、オレ。ここらの人にとっては村なんて日常なんで……」

「ああ、それはそうなのかもしれませんね。でもきっと、これから熊出村の知名度がアップしていけば、私みたいな人もいっぱい来てくれるようになりますよ。いい所ですから」

「頑張りますよ!」

 世辞かな、と思ってもやはりうれしいことを言ってくださる。

 いい気分で運転していると時間は短く感じるもので、もう自宅が見えてくる。

「ああ、あれですうち。車庫の中狭いんで、着いたら先に降りてもらえれば!」

「わかりました」

 家の敷地に入ると玄関近くまで車を寄せ、山村さんを降ろす。それから車庫入れをして、玄関に向かった。

「ただい――っと、びっくりした。なんだよおふくろ」

「さあさあ、早く入って入って!」

 玄関で出迎えたおふくろはすでに歓迎の態勢に入っていた。ぐいぐい来る。

 彼女には山村さんを泊めることなど連絡をしていなかったが、もう村中に来訪者の存在は知れ渡っているらしい。面倒な説明をしなくて済んだのはありがたかったが。

 

   *  *  *

 

 夕食後、恐縮した様子の山村さんに話しかけられる。

「すみませんが……まちさんに連絡って、とれますか?」

「どうかしました? 忘れ物?」

 そう訊いてから、神社の去り際にまちに耳打ちしていた姿を思い出した。

「いいえ、ちょっと――」

「ああ、いいですよ! ちょっと待ってくださいね……ケータイ通じないですもんね」

 言いながらスマートホンを取り出し、ナツとのチャットウィンドウに「山村さんがまちに会いたいんだって」と、話を投げかける。

「よし……あとは反応を……おお、返信が来ましたよ――ほう、まちから来てくれるみたいです」

 そりゃ自宅に来られたらナツも落ち着かないだろうからな。

 あと、今ばあちゃんは不在にしているけど、帰ってきたりしても面倒だし。

 山村さんは「悪いですよ」などと言っていたが、そんな事情もあり「夜道が――」とかなんとか言ってなだめる。

 そういえばナツにも今日のことをお礼言っておこうか。最後の方、結構強引に切り上げてしまったこともあるし。

「そうだ。オレもちょっと別件で用事があるんでした。まちが来たらちょっと出かけてきますね」

「急ぎのお仕事が残っていたとか……?」

「違いますよ! 大丈夫ですお気になさらず! ゆっくり話しててくださいね――なんなら、まちもうちに泊まるように言いますよ。明日は休みですし」

 オレの言葉に、山村さんはさらに恐縮していたが、お泊りの件も含めてナツに話してみることにした。その言い訳もすぐに思いつく。

 まちにとっても、村外の人と関わることはきっとプラスにはたらくに違いないから、と。

 

 

つづく

くまみこのはなし6

6.

 

 よしおくんの家の車庫に自転車を戻し、丸太橋を渡って自宅を望む。

 ふう、と一息吐いて、玄関の引き戸を開けた。

「ただいま」

 土間におばあちゃんの履物はない。またどこかに遠征していて、帰っていないのだろう。

 居間を抜けて階段を上がり、自室に入る。

 荷物を置き、取って返すように廊下に出ると、ちょうどナツも部屋から出てきたところだった。

「あーまち、おかえり!」

「ただいまナツ。うちにいたのね」

「うん。ちょっとYouTuberとしての作業をね」

 とぼとぼと歩く姿は、少し疲れているように見えた。

 私は何も言わずナツに近づくと、胸元辺りの体毛をもそもそと触る。

 ナツはしばらくなすがままにされていた。いつものようなスキンシップがないことが気になる。

「……大丈夫ナツ? 根を詰めすぎなんじゃない?」

「そうかも。でもまちが帰ってきたからもう元気!」

 具体的に指摘されてナツも明るく振舞いだす。

「そうだ! さっきね、しまむらでナツのファンに会ったわ」

「え? ファン?」

 ナツは瞳を円くして、小首を傾げた。

「そうなの! びっくりよね! わざわざ会いに来たって言うのよ? バイクで遠くから」

「観光客だ! そっか……よしおが知ったらよろこぶだろうなー」

 ナツのテンションが目に見えて回復した。私の報告が功を奏したのを見て、ようやく安心する。

「よしおくんに会ったら、いろいろと質問攻めにされて、ドン引きされないかしら」

「あり得るね……もう会っちゃってるかな?」

 よしおくんという危険人物を村の代表と思ってもらいたくはない。

 安心したところで、そんな軽口も出てきたが、報告をしようと思った純粋な動機を思い出した。

「でもね、ナツ聞いて! あの人、雰囲気からして絶対に都会の人だと思うんだけど――つまり、都会の人もしまむらに行くってこと! やっぱりしまむらの名声は広く轟いているの! 片田舎の象徴なんかじゃないわ!」

「あ、うん。そうだね……」

 完膚なきまでに証明されてしまったその先進性には、さすがのナツも言葉少なに首肯するしかない様子だ。

「でもその人、ボクのファンだっていうなら、ボクに会いに来たりするかなぁ」

しまむらでナツに会う服を見繕っていたのかしらね?」

「いや、しまむらの話はもう大丈夫だからね」

「でもきっとそうよ! だって、憧れの人にはハイセンスでファッショナブルな装いで会いたいものでしょ?」

 静かに頷いてくれるナツ。

 以降も私はナツにそのよろこびを十分に伝え、全身の毛並みを堪能した。

   *  *  *

 

「――ということがあったんだよ!」

『ご苦労様、ナツ!』

 それからしばらくして、ふたりで神社に着くとよしおくんから電話があった。

 彼はかなりの上機嫌で、観光客の人に出会ったことが電話の第一声からして明らかだった。

 すぐにナツに代わってくれということなので、ナツに受話器を渡してから、私は少し冷静になって考える。

 古臭い風習が未だに残る、この村。

 そんな村でずっと育ってきたことを、恥ずかしく思う気持ちがある。

 しかし、その村に魅力を感じ、わざわざ訪れようという人もいる。

 もちろん、そこに暮らすのとただ一時的に訪れるのではまったく違うのではあるが、それでも求められるだけの何かが、この村にあるという事実は確かなようだ。

 今回は『ナツ』の魅力を、よしおくんが広く知らしめたことが直接的な要因かもしれないが、これから彼をはじめ、多くの人の手によってこの村のことが広く紹介され、もっともっと村外からの来訪者が増えるのかもしれない。

 以前、東京の親子が村に少しだけ滞在した際には、相手が同世代の男子だったこともあり、変に意識をしてしまった結果、いざ交流してみようと思ったときには村を離れてしまうようなこともあった。

 都会の高校に通うには、田舎コンプレックスとコミュ障はきちんと克服しなければならない。

 幸い、先程遭遇した人は同世代の男子ではない。そして物腰の柔らかそうな人だった。

 見た目で判断をしてはいけないが、ひびきちゃんと比べたら断然真面目で誠実そうに見えた。

 あのひびきちゃんと親交を深めようとしている私なら、なんとかならないはずがない。

 また、せっかく村を訪れてくれたのだ。おもてなしの気持ちで接するのが当然ではないか。

――そうよまち。私にだって、村のイメージアップに貢献できることがあるの。ああ、でも……。

 村のイメージアップというより、よく考えれば、私が変な態度をとってしまうことは、ナツの顔に泥を塗るような行為ではないだろうか――などと、わざわざ自分を苦しめるような考えが頭をよぎったが、それを断ち切るようにかぶりを振った。

「わかった。じゃあ待ってるよ」

 ちょうどナツが受話器を置き、こちらを向く。

「まち、これから少し村を案内しながらこっちに向かうってさ。まちはうちにいる?」

「私も行くわ」

「わ、どうしたのまち? どういう風の吹き回し?」

 もちろん行かないと思っていたのか、ナツは少し心配そうに言った。

「大丈夫よ、ナツ。ナツの顔に泥を塗るようなことは絶対にしないわ」

「そんなことは思ってないよー」

「私もいつまでもこのままじゃ、いられないもの」

「へぇ……えらいなーまちは」

 鼻息も荒く答えた私の言葉に、ナツは感嘆の呟きを漏らした。

「じゃ、行きましょナツ。ナツこそ粗相のないようにね!」

 

   *  *  *

 

 熊出神社の拝殿内でナツとふたり、入口をにらみながらまんじりともせず正座で待機している。

 家を出るときは意気揚々としていたが、いざ待つ段になると少しずつ緊張が高まってきた。

 こちらは余裕があまりないが、ありがたいことに、ナツがいつものように雑談を投げかけてきてくれる。

「ここで私服のまちを見るのもなんだか新鮮だな」

「巫女服を着るわけにもいかないんだから、しょうがないじゃない」

「ほめてるんだよー」

 普段着のようにしている巫女服は、表に出していいものではないと散々言われている。

 あまりに普段着すぎてたまに忘れて出歩いてしまうが、さすがに村外の人に会うというのにそれはまずすぎる。

「その服、もしかしてさっき買ってきたの?」

「そうよ! ちょうど今日仕入れられたことは幸運だったわ……今朝の私は冴えてたわね」

 まるで最新鋭の装備を携えて戦地に赴く兵士のような心持ちの私を見て、ナツは小さく笑った。

 つられて私の口にも笑みが乗る。

「どんな人なんだろうな……パリピみたいなのだったらどうしよう」

「ぱ……?」

「ああ、えーと……テンションがやたら高くてちゃらちゃらしたような」

「よしおくんみたいな?」

「え、よしお……いや、もっとこう……説明しづらいなあ」

「大丈夫よ。きっといい人よナツ。丁寧な人だったわ」

 私はとりあえず素直な印象を述べた。

「ふーん……まちが言うなら相当丁寧なんだろうなー」

 ナツの言葉が引っかかったが、いつものようにここで体に訴えてしまうと、ちょうどそこに入って来られるかもしれないので控えることにする。

「……命拾いしたわね」

「怖いこと言うね、まち……ん? 来たんじゃない?」

 ナツの言葉に一気に胸から側頭部にかけて肌を熱いものが駆け巡る。

 数瞬後に、段を昇る複数の足音が聞こえ、簾が持ち上がった。

「……っと、そうか。お参りされますよね」

 よしおくんの声がして、一度持ち上げられた簾がまた元に戻る。

「……フェイントだね」

「や、やめてほしい」

「深呼吸深呼吸」

 息をするのも忘れていた私にナツから声がかかる。失神してしまっては事だ。いつかの失態が思い出される。

『はい、じゃあ上がりましょうか。大丈夫、神様は身内ですからね』

 言葉とともに、今度こそふたりが拝殿内に入ってきた。

「さあ、待望の『ナッちゃん』です!」

「わぁ! ……あ、初めまして! すごい、かなり大きいんですね……」

「こちらこそはじめまして! 今日はわざわざ会いに来てくれてありがとう!」

 『ナッちゃん』の歓迎の意を受け、先程会ったその人がにっこりと微笑んだ。

 それからこちらも一瞥し、同じように微笑んでくれる。

「また、お会いしましたね。まさか巫女さんをされているなんてびっくりしました。こんな偶然ってあるんですね」

「そ、そうですね……!」

 緊張で声が上ずってしまう。まともに目を合わすことができないが、ちらりと伺うと相手も目をばっちり合わせては話さないタイプのようで、少し安心した。

「そちらはさっき話しました、オレのいとこのまちって言います」

 よしおくんの紹介におずおずと会釈をすると、その人は丁寧に頭を下げながら山村と名乗った。

「雨宿さん、その……ナッちゃんは握手とかって、してもらえたりするんですか?」

 名字を呼ばれ、一瞬びくりとしてしまう。そういえばよしおくんも雨宿だった。

「もちろん大丈夫ですよー! ……って、そうか。すみません山村さん――」

 よしおくんも私の反応に気付いたらしく、「こいつも雨宿って名字なんでオレのことはよしおって呼んでくれるとありがたいです」とお願いをした。

「ちょっと呼びづらいかもしれないですけどね。山村さん礼儀正しいから」

「いえ、でも……はい。良夫さん、と、まちさん。あらためて、よろしくお願いします」

 山村さんはそう言って再び頭を下げ、それからナツの方に向いて少し困ったように言った。

「『ナッちゃん』もよろしくお願いします」

「よろしくね!」

 山村さんは感激した様子でナツの手の感触を確かめつつ、手交していた。

「でも……『ナッちゃん』だけ、ちゃん付けでお呼びするのもなんかおかしいですね」

「そんなことないよな? 『ナッちゃん』?」

「そうよね、『ナッちゃん』」

「……」

 山村さんの言葉に同調するように、よしおくんと私はナツに問いかけた。

 ナツはまだ、こういったいつもの空気においての『ナッちゃん』の振舞いに慣れていないのか、黙り込んでしまう。

「『ナッちゃん』さん、では余計おかしいですもんね」

「あははは! 山村さんそれはちょっと、面白すぎますね!」

 山村さんが真面目な顔をしてそんなことを言うので、よしおくんがたまらず笑いだす。私もつられて少し笑ってしまったが、ナツはどんな反応をしてよいかわからず、下を向いている。

「はははは! ――はぁ、笑った笑った。でもこっちも話しづらいんですよねぇ、確かに」

 そう言うと、よしおくんは少し考え込むような仕種を見せたが、すぐに顔を上げて続けた。

「いっそ、普通に『ナツ』って呼んでもらいますか!」

「え、よしおくん!」

「!?」

 よしおくんの発言に、ナツも私も驚いて固まった。

 マスコットのゆるキャラに会いに来た人に対して、その発言は着ぐるみの中を見せるようなものではないのだろうか。

 おそるおそる当の山村さんの顔を伺うと、何事もないような微笑を浮かべていた。

 少し拍子抜けをしながらも、こちらからかける言葉はなかなか出てこない。

 そうこうしているうちに話が進む。

「いいんですか? ナツさんも、それで」

 問いかけられたナツは、助けを求めるように黙ってよしおくんを見つめた。

「ナツがいいならそうしてもらいなよ」

「あ、あの……」

 すげない答えに、ナツがどうしようもない様子で口ごもった。こんなナツを見るのは初めてだ。

「――そっか、ごめんナツ。事前にちゃんと話をしてなかったオレが悪いや」

 おかしな様子のナツに、ようやくよしおくんは事態を把握したらしく、必要な説明を始めた。

 

   *  *  *

 

「――なんだ。じゃあ別にボクに会いに来たってわけじゃないんだね」

「もちろん、ナツさんにお会いできることも楽しみにしていましたけれど」

 事態がすっかり落ち着き、いつもの調子に戻ったナツ。

 一方の私はよしおくんからの細かな説明が途中で追えなくなり、ある程度のところで考えるのを放棄していた。

『山村さんは、ゆるキャラの大会でナッちゃんを見たことをきっかけに、「この熊出村」に興味を持って来てくれたんだ』

『先にナツの名前のことは話してあったんだよね。クマ井ナツが本名なんだって』

『話が盛り上がって、途中で口が滑っ――いや別に設定として明かしていないことだけど、問題ないよな? 「クマ井のナッちゃん」なんだから、自明みたいなもんだよね?』

『ってか、それと関係なくナッちゃんの公式ツイッターアカウントのID、「kumamiko_natu」ってしちゃってるじゃんかさー』

『そんなことより山村さん、すごいんだよ! 知識量が半端なくてさー趣味の域を超えてるっていうか――』

 そんな感じで、よしおくんは立て板に水の如く話しきったが、それ以降の内容は右から左に通り抜けていってしまったのだった。

 私にわかったのは「どうもこの山村さんはよしおくんと同類で無類の村好きらしい」ということだけだ。

 ただ、いくら彼と同類だからといって、彼のような強引さは感じないし、村好きにもいろいろな人がいるのだなあということは、理解できたので良しとしたい。

 そんなことを思っていると、不意に山村さんが話しかけてきた。

「まちさん、巫女さんだって聞いたんだけど、巫女さんってどんなことをするの?」

「えっ、えーと……この神社は無人なので、掃除をしたりしてるだけで……」

「舞ったりしないんですか?」

「えーと……それは……」

「あ、ごめんなさい。ちょっと興味があって……。私、妹がいるんですけど、近くの神社で神楽を舞っていたことがあったんです」

 山村さんの質問に答えあぐねていると、思いがけないことを言われて少し驚く。

「でも、その役はその年限りのもので、毎年地区の女の子が代わる代わる務める行事なんです。そんな行事みたいなものとは違って、まちさんは本格的な巫女さんなのかな? と、ちょっと思ったものだから……」

 丁寧に説明をしてくれる山村さんに、応えられないことがわずかに罪悪感となってちくりと胸を刺し、思わず「ごめんなさい」と口を吐いて出た。

 山村さんは少し驚いたようだったが、それ以上尋ねることはなかった。その代わりに「アイヌ系の神楽、興味あったんだけどな」と呟いた。

 『アイヌ』の単語に、私は思わず伏せていた顔を勢いよく上げた。

 そんな過敏な反応に、山村さんは少しいたずらっぽく話を続ける。

アイヌ民族のこと、まちさんも興味あります?」

 思わず頷いてしまう私。

「じゃああとで、少しお話しましょう」

 そう言って山村さんは妖しく微笑んだ。

 

 

つづく

くまみこのはなし5

5.

 

 連休初日、早朝に家を出た私は途中休み休み高速を下り、目的地最寄りのインターチェンジを下りたのが日も傾きはじめた頃になってからであった。

「んー……腰が痛くなっちゃったなー」

 自動二輪での旅としては少々厳しい――いや、人によってはミニバイクとかでも日本一周したりするのだからそんなことは言っていられない。

 単に私が長距離運転に慣れていないだけのことだ。

 少し体をほぐすようにしながら国道を流していると、道の駅の看板が見えてきた。

 この辺りで一度休憩をとろう。

 

『道の駅 よってけ』

 

――面白い名前だ。

 でも中は普通に農産物の直売所があったり軽食が売っていたりと普通の道の駅だった。

 確かこの辺りは「田村村」というんじゃなかったか――いや、ここも合併で「田村地区」だったか。なんにせよ『道の駅 たむら』とかじゃいけなかったのだろうか。

 しばらく休ませてもらい、これからの行程を確認する。

 普通に考えて今日はこちらに泊まる予定なのだが、できれば件の熊出村で宿を探したかった。しかし、ネットで調べてもなかなか情報はない。存在しない可能性が大である。

 そうなれば町の方の市街地にある適当なホテルに行ってみるしかないかもしれない。でもとりあえず一度どこかで宿屋の有無を訊いてみようと思っている。

 服に関しても、必要最低限しか持ち合わせがない。思ったより寒いので、何か適当に着るものを見繕いたい。こちらに関しては国道沿いに何かあるだろう。あとは――

「あだぁ、『熊出村』行ぐな?」

「え」

 不意に腰の辺りを雑に掴まれると、しわがれた大声で話しかけられ、体が硬直した。

 腰の曲がった老婆がビニール袋を片手に私の服を掴んでいる。そして私の困惑などお構いなしにまくし立てた。

「熊出村はぁ――呪われておるんじゃて――」

「えーと、の、呪い……?」

「近づいてはならぬ……『ケモノ』に憑かれておるからなぁ!」

「き、気をつけます」

 突然の剣幕に、それ以上何も答えることができない。

 そのまましばらく目を伏せていると、強い力で掴まれていた服は放され、老婆はじりじりと遠ざかっていった。

 辺りを見回してみたが、ほかに人はいない。目的地に着く前に変な面倒事に巻き込まれたかとひやひやしたが、これ以上何も起こらなそうなことを確認すると、再びバイクに跨り、逃げるようにその場を去った。胸に不快感がわだかまるというよりむしろこの旅の趣旨からすればそれはスパイスですらあったのだが。

 

   *  *  *

 

 国道をしばらく走ると、運よくファストファッションの店舗を見つけることができた。迷わず入店する。

 いやしかし、こんな所にもあるのか……このファッションセンターは。うちの近くにもチェーンの別店舗があるのだ。なんだか安心してしまう。

 そんな気持ちが少し顔に出てしまっていたのだろうか。商品を物色していると、不意にほかの客と目が合い、わずかに笑いかけられた。

 青い制服に赤い紐タイ、黒い髪を左右に結んで前に垂らした大人しそうな少女だった。

 地元の学生だろうか。一瞬話しかけてみようかと思ったが、躊躇ったわずかな間に彼女は違う棚へと歩いて行ってしまった。

 私は仕方なく本来の目的に意識を戻す。知らない土地で凍えたくはなかった。

 無難なデザインの服を手に取ってレジに向かう。こういうのはあまり悩まない性質だ。

 最後まで勝手知ったる安心感のある空気に包まれながら退店したところで、先程目の合った少女が自転車を押しているところに遭遇した。

 普段あまり社交的な方ではないが、旅先ではそんなわけにはいかないこともある。

 少し意を決して、彼女に話しかけてみることにした。

「すみません。ちょっとお伺いしたいんですけど」

「ひ、え、あ……えーと」

 急に話しかけたのは悪かったかもしれないが、そんなに怯えるほどだろうか。

 こちらの緊張感が急激に引いていく。

「急にごめんなさい。ちょっと、道の確認がしたくて……地元の方ですか?」

「は、はい……」

「すみません。ありがとうございます。県外から来たんですけど、ちょっとこの辺電波が弱くて携帯の電池も心もとなくて……。えーと、熊渡谷の方……熊出村に行きたいんですけど、そこの橋を渡るので合ってますか?」

「え?! うちの村に来るんですか? な、なんで……」

 村の名前が出た瞬間、直前までの様子から打って変わって鋭い反応を示した少女だったが、自身でそれに気付いたのか、最後の方は再び消え入りそうな調子となっていった。

――村人か。ちょっと顔見知りになれたことは好都合かもしれないな。

 とにかく、怖がらせないように優しく話しかける。

「テレビでゆるキャラのナッちゃんを見て、ちょっと調べたら綺麗な村だなーと思いまして」

「ナツ……な、ナッちゃんのファンの方ですか?」

「ファン……そうですね。あと村の方にも興味が湧きまして」

「えー……そうなんですかー……」

 心底驚いたのか、少女は少々失礼な反応を見せたが、流すことにした。「ほ、本当にそんな人いるんだ……」などという声も聞こえるが気にしない。

「そうそう、それで、ここで橋を渡るので間違いないんですよね?」

「あ、はい! あとはほとんど一本道ですけど……」

「わかりました。本当にありがとうございます。」

 急に話しかけて申し訳ない、と再度謝りを入れながら、少女に別れを告げた。

 駐車場から道に出ようというタイミングで再び少女の方に目を向けると、そのままの格好でまだそこに佇んでいる。

 あの極度の人見知りは地域性なのだろうか。そうだとしたら、先が思いやられることだった。

 

   *  *  *

 

「はー東京の方から! ご苦労なことで!」

「方面……ではありますけどね、東京は私の地元から見てもかなり都会ですよ」

「いやーーでも、この辺は見てのとおり、信じられないくらいクソ田舎でしょう?」

「の、長閑でいいと思いますけれど……」

 村の入口に個人商店を見つけたので飲み物やらを買いつつ話を聞こうかと思ったら、想像以上に話し好きなおばさんに捕まってしまっていた。

 さっきからこんな調子で自虐的に攻め立てられている。

 田舎に旅行あるあるではあるのだが、かなりのディスり方だ。

 それでいて、いくら話していても頻出の「都会の人じゃこんな所に住めない」という話にはならないな、などとぼんやり思っていると、「おばちゃーん」という声とともに、別の客が引き戸を開けて入店してきた。

「ん? あれ、どちらの方?」

「よしおちゃん! この子ね、東京から来たんだって!」

「へぇー! まさか、観光ですか?!」

「え、あ、はい。そうです。あと東京ではなく……」

「おおおお!! いやすごい! どうしてうちの村に?!」

 初対面の男性が入ってくるなりハイテンションで矢継ぎ早に問いかけてくるので、面食らってしまう。話し好きのおばちゃんの比ではない。

 先程会った少女はやはり、大人しい子だったのだな、などと思いながらも、彼の会話のペースに呑まれ、いつしか「村を案内しますよ!」などという話になっている。

「いいんじゃない? よしおちゃんよりこの村に詳しい人いないからねぇ」

「この村で一番、この村のことが大好きですから!」

 勝手に話がまとまっている。

 村に詳しいというならこちらとしても願ったり叶ったりではある。

 ただこうも強引に若い男性に――しかし人の良さそうなおばさんもこう言っているわけだから信頼できる人なのだろうか。でもそもそもこの人は何か用があってお店に来たんじゃないのか?

 いろいろと考えは巡ったが、具体的に口を吐いて出ることはなかった。

 適当な相槌しか打てないままに、背中を押されるようにして表に出る。

 去り際におばさんにお礼を言おうと振り向いたが、すぐ後ろにいたはずのその姿が消えていた。よく見れば、店の奥のカウンターにその姿はあったのだが、先程までにこにこしていたはずのその表情は固く、黒電話の受話器を片手にそそくさとダイヤルを回している。

 そんな電話まだ現役なのだなあ、とそのときは曖昧に流してしまったのだった。

 

   *  *  *

 

 連れて行かれたのは村役場の応接室であった。

 連れて行かれたとは言っても、私は単車だし彼は軽自動車だしということで気楽に後を付いていっただけではあった。

 ちなみに、入口には急ごしらえのような「北島郡吉幾町 熊出出張所」との立て看板が掲出されていたが、途中の案内板や建物内の様々な表現において当然のように「村役場」や「熊出村」が使われている。

『本物』の気配に少しだけ背筋が凍った。

「すみませんねーせっかく来ていただいたのに、観光案内所みたいなものはなくて」

「いえ全然……でも、役場の職員さんだったんですね。業務中にすみません」

「いいんですよ! これもわくわく観光課職員としての業務にほかなりませんからね!」

 任せてくれ、と言わんばかりの自信たっぷりな様子だ。

 しかし、こんな待遇を受けるとは、やはり観光客は相当珍しいのだろうか。

「ああ、すみません! 申し遅れましたが、私、熊出村わくわく観光課の雨宿良夫と申します!」

「えーと、私は山村と言います」

「おおお! いいお名前ですね!」

「いえいえそんな……でも、名は体を表すといいますか、長閑な山村が好きで――」

 それからしばらく、村談義で盛り上がった。

 私としてもあまりこの話題で話すことがなかったので、少々調子に乗ってしまったところがあったが、それ以上に雨宿さんは興奮しているようだった。

「じゃあ、村が好きでここに? いや……村なんてその辺にいくらでもありますよね……あれ、どこからいらしたって話でしたっけ?」

 先程はぼかしていたが、ここで具体的な地名を伝えてみる。

 雨宿りさんはやはりというべきか、強烈に食いついてきた。

「えっ! クマって熊ですよね?! 熊が付く地名なんですか!! それで山村さん?! これは無関係なはずないですよ!」

「あはは、私もそう思います」

 とっておきの隠し玉的な気持ちでいたが、あまりに食いつくので可笑しくなってしまった。

 熊出村のことを調べているときに、近くを走る鉄道の最寄駅である『熊渡谷(ゆうとだに)』の文字列を見て思いついた取り入り方だったが、さすがに効果抜群であった。

「へー……そうなんですねー……いやあ、本当に奇遇だなあ……!」

 面白い偶然に、未だに浸っている様子の雨宿さんだったが、思い出したように両膝を叩くと、「なんでこの村にいらっしゃったかって話でしたね」と話題を戻した。

「はい。その関係での対応は多いと思いますけど、私もゆるキャラの『ナッちゃん』を見まして」

「ああ! いやーさすがに1位を取ると違いますねぇ!」

「おめでとうございました」

 一応、お祝いの言葉を述べておく。雨宿さんは「ありがとうございます!」と快活に答え、それから「しかし、ついにナツ目当てで来てくれる人が……」と呟いた。

「『ナツ』、というのはナッちゃんの本名なんですか?」

「え? ――ああ、そうなんです。『クマ井のナッちゃん』。クマ井が名字でナツが名前――って、設定なんですよね」

 そう答える雨宿さんに、少し今までとは違う慎重な態度を感じた。

 さらに彼は小声で「まあ裏設定なんですけど」と歯切れ悪く話しつつ、後頭部を弄った。

――裏表のない、わかりやすい人だなぁ。

 熊出村が閉鎖的な山村であることは間違いないが、殊、彼に関しては私にとってかなり都合のよい存在であるようだ。

 私が微笑むと、それに気付いた彼も悪戯がバレた子供のように笑みを浮かべた。

 

 

つづく


掲載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。