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『FLOWERS』シリーズの感想【もうちょっと踏み込んでみて】

 さて、区切りをつけるため、私なりにこの作品の具体的な感想も書き記しておきたいと思います。

 

可能な限り多くの関連コンテンツに触れ、いろいろと考えを巡らせた結果、私がこの作品に抱いた率直な気持ちというのは、一部の登場人物が好ましく思えないキャラクター性だったり、悪い印象が拭えなかった点が残念だというものです。これは唯一の引っかかりでしたが、作品の根幹に係るものでした。

これを好意的に解釈すれば、私の読解力・理解力・考察力のなさによって、シナリオ上の言動の不審な点を、そのキャラクター性に負託させるよりほかなかったことに因るのだと思います。

少し批判的に書くのであれば、シナリオとしては行間に十分な解釈の余地を残してあったのでしょうが、それを解釈するに足る表現が十分ではなかったと言えるかもしれません。

最も過激に書くのであれば、シナリオの瑕疵です。でも私はこの作品に限ってそんなことはあり得ないと信じていますので、登場人物を損なわないような説明がつくための表現が私にとっては十分でなかったか、私にとって普通程度の享受感度では読みとれない程度に薄かった。辺りが適当ではないかなと思います。

 

さらに具体的に書き留めておきましょう。

……ごちゃごちゃ書きますので先に結論を述べれば、「加害へのケアが不足している」こと。この一点に尽きます。
つまり、シナリオ上、加害者という立場にされた登場人物たちの贖罪シーンが不十分であり、不当に赦されているように感じてしまったのでした。
せっかくの魅力的な登場人物の印象が改善されないのはもったいないなあと思いました。
そう思うわけですが、本編外のコンテンツではそんな蟠りなど解決済みだと言わんばかりの描写が目白押しであったこともあり、その違和感は無視できないものとなってしまいました。

 

では、少しだけ詳細に紐解いてみましょう。

 

FLOWERS春篇での衝撃的なエンディング。この凄惨さが『FLOWERS』の骨子を形成していることは間違いないことだと思います。
その凄惨な事件の原因は、作品全体の読後感と言いますか、作品の印象、意義、魅力を決定づける「シナリオ」というものの方向性を大きく左右します。

 

この種のシナリオを大まかに理解や把握するには“害されたこと”とその“原因”をセットで扱うのが私にとって自然な考え方です。

捉え方としては大きくふたつあるのかなと思います。
それは、その被害が避けられたのか、避けられなかったのかの2パターンです。

凄惨な事件が、突き詰めてしまえば単に不運だったのだといった、避けがたい原因によるものであったならば、救いがたい、やるせない感慨が湧きます。悲しい気持ち。無力感。茫漠。といった感想になりそうです。

はたまた、凄惨な事件がある人物の悪意によって生じたものであるならば、その人物に対して恨みの感情が生まれます。
ちなみにその場合、勧善懲悪的な展開により、悪役が報いを受けることで、話を落とす手法が多く使われていそうです。

前者のタイプのオチを嫌う人も多くいるのではないかと思います。 
すぐに思い浮かぶところでは、『ミスト』という映画作品なんかがありましょうか。憶えているオチと違ったらごめんなさい。

後者はまあ数多あるでしょう。やはり仇なす存在がぎゃふんと言わされてすっきりするのが正道なのかなあという気がいたします。

ちなみに、正直、私としては前者も好きですし、後者は後者で良いものです。

 

さて、この『FLOWERS』がどちらなのかと言えば、私としては前者の作品として捉えているのに、後者のように思えてしまう。というわけなのでした。

 

この作品で描かれた凄惨な事件は、見返りのある正当な取引により生じた秘事によるものだったということが最終的には明かされました。それを受け入れた側は納得した上でそのような事態になったものであって、強制されたものではないと。

そうすると、その凄惨な事件を引き起こした責任は、それを受け入れた者に圧し掛かっていると感ぜられるのです。
それが、弱みを握られるとか、何かやむを得ぬ事情があったのならば、まだわかります。責任を負うことはないと思います。しかし、受け入れたという事実は、それにより容易にもたらされる事件による加害と、身をやつすことになるその待遇を天秤にかけ、後者を選択したということにほかなりません。

 

 

彼女は結果として加害者となってしまいました。

しかし、根っからの加害者も存在しています。
懊悩する主人公たちの傍で、能弁にずっと加害し続けていた大人。彼女こそが、すべての悪を背負っていると言っても過言ではなく思います。
それが、作品内で本当にびっくりするくらい過剰に持ち上げられていることには、歪なものを感じざるを得ません。善意の塊みたいな人だと。慈愛の権化みたいなその評価は、それを下した登場人物をも貶めます。見る目がないというか。仲間への加害に対してあんなに怒っていたじゃないか! とも思います。

 

あとは冬編で主人公たちに急遽立ちはだかる存在。彼女らも、贖罪がないばかりか、作中で「赦されると思っていた」などと発言する辺りが、ライターと私で加害に対してのバランス感覚が本当に大きく異なるのだなあと思わせられます。
しかも、マジで物理的に加害しますからね。これは、ちょっと赦されざるわって思いますよね? おかしいのかな……。

 

“やだみ”について書くのは簡単ですね。
ただ、やだみの話になると、フィクションラインの話という懐かしい話題が思い浮かびます。

この作品で言うならば、フィクションラインが低くて、そこにある描写の信憑性が高いわけです。
だから、より厳密な感情の運びが求められるといいますか……説得力、妥当性を担保するのが、感情の流れに不自然なところがないことであって、それを怠ると、所謂「作者の顔が透けて見える」という現象が起こります。

シナリオの都合で登場人物の言動が歪ませられてしまっている――そう感じてしまったら最後、シナリオの瑕疵という結論となってしまうでしょう。


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